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生きてる芸術

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最近の記事

自分の中の自分

結局自分というものは自分の中の自分に動かされていて、 その自分に抗うときに苦しみが生じる。 自分との調和というのは表面の自分ではなくて 自分が認識しえない自分との調和なんだと思う。 自分を裏切るとバイブスは下がり 警告的なぐるぐると胸の不快感に襲われる。 自分は自分に向かって言う 「お前が進む道はそっちではない。高めるな。もっとダメになれ」 ダメになることは自分にとっては恐ろしい。 このまま突っぱねて論理で考えた幸せの上を歩きたくなるがそのようにはさせてくれない。

    • 散歩老人

      お弁当を持って公園へ行き一人で食べた。 午前中の公園には健康維持の為に散歩している老人しかいなくて穏やかだった。 多分もう働いていないと思われる営みは豊かに見えた。 雪がまだ残る中でお弁当を食べる姿はピクニックというよりは浮浪者に近かったと思う。 それでも午前中の日差しは暖かかった。

      • これは詩だとかこれは詩でないとか そんなのは自分の受け取り方でしかなくて 本当は全てが詩であり その全てというのは自分が感じるものである 世界を知覚する自分がそれを詩と思えばそれは詩であり それを詩ではないと思えばそれは詩ではない 全てを詩だと思うとき それは世界と人生を愛でる事ができる精神の在り方なんだと思う

        • なにも得られないしなにも失えない中で

          人生を良くするコツなんて言葉は使いたくないけど、もしそういうものがあるのだとしたら、単純に悪い習慣をやめて、良い習慣を取り入れる事だと思う。 何が良い習慣で何が悪い習慣なのかはそれぞれで違うから何かは言えないけど、悪い習慣を繰り返していたら段々と中毒になる。 中毒の中には様々な種類があって、一番の中毒は社会中毒だと思う。 人間、悪い習慣を繰り返していると自分の中から毒性が現れてくる。 生きる上で社会性や知識やお金など、何かを得ていくことは大切な事だけど、それらを得ると同

        自分の中の自分

          去年の夏

          去年の夏、よく行っていた場所に行った。 その場所にいると去年の夏の出来事や人間関係を思い出した。 去年関わってた人とは今はもう関係が切れていて、 去年関わってなかった人と今は深く繋がっている。 考え方もライフスタイルもすごく変わった。 あの頃には考えられないくらい悪い方向に進んだ面もあるし、 あの頃には考えられないくらい良い方向に進んだこともある。 一括りに良くなったとか悪くなったなんてそんな事は言えないけど、様々なことが確かに変わった。 良いも悪いも含めて変わったことを良

          去年の夏

          繊細な感情

          繊細な感情を増幅して感じてみる どんな想いも自分の思いだから 感じないように頑張るのをやめて降参して感じてみる 本当に申し訳なかった… 悲しい… 不安… さみしい… イライラする… これらは全部なかった事にはできないから 自分の中にあるものを汲み取って増幅させるような気持ちで取り出してみる そして感じたあとにもう一度考えてみる 今感じた事は真実なのかな 生きてたら傷つくこともあるし 傷つけてしまうこともある その様をありのまま受け止めたい

          繊細な感情

          持続不可能

          持続不可能なことをやめていく。 やっぱり持続可能なことを低コストでやり続ける方が長期的にみて効率が良い気がする。 持続不可能な事をやり続けると心身共に死んでいき、自分の終了と共に持続も終わる。 強制的に終わる前にこれは持続可能なのか持続不可能なのかを見極めて、持続不可能であるならば早めに切り上げた方が良いのかかもしれない。

          持続不可能

          全てがなくなったとしても残るもの

          高める事も貶める事もできないもの 増やす事も減らす事もできないもの 変わりえないもの 見る事も聞く事もできないもの 全てがなくなったとしても 脈々とここに残るもの ただ生きているということ それは全ての人に平等に降り注いでいる

          全てがなくなったとしても残るもの

          もぐらたたき

          自分の悪いところを探して… ここを改善しなきゃ ここを直さなきゃ もっとこうならなきゃ 問題を解決しなきゃ っていうこともある程度必要だとは思うけど そんな事はもぐらたたきと一緒でやってもやっても終わらない それより欠点もある自分をそのまま受け入れて こんな自分でもいいよって言ってあげる ただただここに今存在している自分を自分が認めてあげる それだけで癒されていく何かがある 自分探しって言うけど その探していた自分ってここにいる

          もぐらたたき

          内的な価値

          何かができるとか お金があるとか 健康な肉体があるとか そういう外的な所に自分の価値はない ここに今自分が生きて存在しているという所に自分の価値と 本当の意味での自己肯定感がある ダイヤモンドは既に自分の胸の内にある 違いがあるとすれば 既にここにあるものへの自覚があるのかないのか そして自覚がないというのは 漠然とした不安感と不足がなんとなくそこにあるだけで それすらも幻想的なフェイクのバイブスでしかないのだと思う

          内的な価値

          相互関係

          相互関係を感じる 自分の意識が開いたから相手の意識も開く 逆に自分が何かに固執するから 相手にも固執させてしまう 別にそれを責める必要はないけど 仕組みとしてはそうあるのを感じる そしてそれら全ては常に最善に進んでいる事も感じる

          新しい道なんて

          安定の中に自分はいない 何か新しい道が見つかってからではなく 先に手放してしまうことが大事なような気がする そして新しい道なんてものすら本当はないのかもしれない ただただ手探りでその感触を追求していく 見つかったと思ったものすらも 見つかった瞬間に指の隙間からこぼれ落ちていく 何も掴む事はできないような感覚 ただただ既知から未知へと入り込んでいくのかもしれない

          新しい道なんて

          病んでてもいいよ

          病んでてもいいよ 日々生きていたら様々な感情が溢れてくる 悲しみ寂しさ喜び怒り… 自分の中にある抵抗を外して それを自分の一部として認めて受け入れたとき それが癒され始めるのを感じる そうする事によって 昔に切り離した自分が還ってくるような感覚を感じます

          病んでてもいいよ

          わかりあえない

          自分は絶対ジャッジをするし、他人からも絶対ジャッジをされる 他人の事なんてわからないし、他人からわかってもらえる事もない バイアスは絶対かかるし、他人からも絶対バイアスのかかった視点で見られる そんな事は自明の事であり 当たり前の現実を当たり前の現実としてどれだけ受け入れられるか できない事はできないし、出来る事は出来る どこまでもどこまでもこの現実を直接体験する事 直視する事 自分の都合良く解釈しない事 それしか自分にはできないし それすらも完璧に出来る

          わかりあえない

          病気と普通の暮らし

          僕はパニック障害です。 毎日リハビリのような生活を送っています。 皆さんが毎日普通に行っているような、外出や買い物、旅行などが僕も普通にできるようになる事が夢です。 だからみなさんが今普通に外出して、買い物や外食をできている事はすごい事なんだと思ってください。 それは僕が夢見ている事だから。 僕は元アトピー患者です。 今は9割治っています。 今毎日を身体を掻きむしる事なく生きられている事に感謝します。 だって、普通にかゆくならずに生活できる事が、毎日掻き下して過ごし

          病気と普通の暮らし

          抽象的な答えの解像度を上げる

          抽象的な答えは世の中に溢れている。 自分の感性はそれらを求めて彷徨い、それらに触れられたときには、何か真実触れたような感覚を覚える。 でもそれらがなんなのかはその時点ではわからない。 抽象的な答えに対して自分なりに考えて、それを踏まえた上で人生を体験する事によって、それらに対する理解が深まる。 抽象的な答えの解像度を上げる。 そんな作業をずっとやっているような気がする。

          抽象的な答えの解像度を上げる