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ZEN×Well-beingダイアログに参加して


2023年10月6日、永平寺町四季の森複合施設旧傘松閣にて開催された「ZENの聖地から世界の安寧を問う ZEN×Well-beingダイアログ」に、駅前宿舎禪も実行委員として参加してまいりました。

その日の模様がまとめられた記事があるのでぜひご一読ください。



記事にもある通り、この日はざっくり以下の4部構成でした。
①ジョブズと親交のあった写真家・小平尚典さんのお話
②滋賀県・曹洞宗清水山長谷院堂司の村田浩道さんのお話
③テーマごとに5人程度の班に分かれてダイアログ
④ダイアログまとめ:wephone application 作成

最初私は実行委員として受付を担当していたので①②あたりは聞けていたり聞けてなかったりだったのですが・・(残念!)
小平尚典さんの作品は以下のご本でご覧いただけます。


ダイアログに参加して


③のダイアログでは「禅」「地域活性」「生命」「AI」などのテーマに分かれ、私は「信仰」チームのオーナーとして参加させていただきました。

今回の催しは、世界平和・禅・ジョブズ・ウェルビーイング・AIというテーマだったので、「これからの世界で人類の幸福のために信仰は必要とされるのか。必要とされる信仰の形はどんなものと思うか」という方向性で対話を進めていきました。

メモを取っていたわけではないので
主観的に選択され残った記憶になるのですが

参加された方は
・歴史のある既存の宗教のベースはありつつ
 自己規範を作って来られた方
・近代に作られた思想哲学を信仰されている方
・家の宗派についてあまり知らないながら属している方
・自己の信仰は密かなものとして、宗教全体にも学問として知識のある方
などなど

話題に上がったのは
・何故日本では信仰心を隠しがちなのだろうという疑問
・色んな宗教民族が混在している中では自分はこうと明確にせざるをえない
・神や呪術性がファンタジーとなってしまった現代の信仰とは
・大衆に共有できるものではなくなってきている点では
 只管打坐という禅の考え方は誰にでも共有化しやすい
・自己規範を一から作るよりも既存の規範に習ったほうが安心感が高いかも
・宗教は大衆化よりも小さなコミュニティが機能しやすいかもしれない
・反してなぜファンタジー的な要素の強い信仰を求める人も昨今多いのか
・日本と海外での「スピリチュアリティ」の捉え方の違い
・ジョブズが作った感覚的に操作できる情報端末は人々の欲望を引き出す
 ツールとなった部分もあり、その混乱の中で倫理性が求められていく部分
 あるが。
・PCはアカデミズムや知の体系の補助的ツールであったが、そのころまで
 は学術的知の体系への信仰の時代であったかもしれない。
・これからはメタ信仰、認識への信仰の時代かも。
・新しい時代の子供たちは物欲が低下してきている。
・サトリ世代ができたのは物質が豊かになった環境因子が高い。

お話できたのは一時間弱だったと思うので、深く掘り下げていくところまではできませんでしたが、こういう内容について皆さんがご自身の体験やお考えをもとにご意見を交わしてくださいました。

このあとは各チームのまとめを報告されたのですが
「禅」チームの方が「足るを知る」という禅の教えのお話をされていたということや、「AI」チームがやはり信仰が担わなければならない部分ある、宗教アプリがあるとよいかもなどお話をされていたので、今の時代に必要だと思われることが皆同じなのだなと感じられました。

この催しには福井の地元の方も、関東・関西の方も、海外から参加された方もいらっしゃったので、このような対話の場でこの実感を得られたことは、私にとってひとつ大きなことでした。


また、主催の佐竹正範さん(福井県観光連盟観光地域づくりマネージャー)が日本の古くからある自然信仰について語られたとき、
自然もまた大衆が共有化しやすいシンプルな信仰対象だから現代の人が強く惹かれているのかもと、現代の若者の環境問題に対する感覚はそれこそ原始的な自然への敬慕が起点だと捉える必要性もあるように感じられました。

このあと、wephone app作りの時間となり、個人で感じたことをまとめていく作業に入ったのですが、


皆さんの思いを綴ったwephone

私はそのとき、今この場でこれからの倫理と幸福のあるべき姿を考えているけれども、いや若い世代には必要なものがすでに備わっているという帰結の中で、そういえば、それに似たような話があったなあ・・・と、分子細胞生物学の福岡伸一先生の「動的平衡」論を久しぶりに思い出していました。


そしてこれからの時代にAIの進化が急激に進んでいくことに不安を覚えているけれども、人間の進化もこんなに早く進んでいるのだと、その気づきに感動を覚えました。

そんなわけで、wephoneには「AIの進化VS遺伝子の進化」と記入しました。愚かしく悲しいことも多いけれど、私たちはもっと生命としての人類に期待していい。それは新しい時代のウェルビーイングとして知っておいてもよいのではないかと思えたのです。

また別にもうひとつ大きな気づきがありました。
②の曹洞宗僧侶である村田浩道さんのお話でのことです。

禅とレレレのおじさん


村田浩道さんは、周利槃徳(シュリハンドク)のお話をされました。
周利槃徳は赤塚不二夫のレレレのおじさんのモデルであり、文字の覚えが悪いのでお釈迦様に清掃だけを命じられ、やがて悟りを開いた高僧となったのだそうです。

実は私のInstagramのプロフィールが「音無響子目指して竹箒買ったらレレレのおじさんになっちゃう感じ。」という自己紹介だもので、アレレレ!というわけです。プロフはジョークのつもりだったんです。

でも私自身もお掃除やお料理といった日常の作務を大切に過ごす暮らし方に昔から憧れがあり、駅前宿舎禪を開業したことで、その暮らしを手に入れたと思っていました。
しかし、来る日も来る日も、洗濯と掃除に追われると、
知性や創造性をもつ人として人らしく生きることはこういうことなのだろうかと疑問を抱いたり、虚しくなるときがありました。


村田さんのお話では、周利槃徳も「やってられんわ!こんなことしてなんになるんや!」と思ったときに、「きれいにしなければならないのは心のほうだった」と悟られたということでした。

スティーブ・ジョブズの有名な言葉「Stay hungry, stay foolish」は
愚直に一筋にものごとを極めていく周利槃徳の悟りの在り方なのだというお話で、なるほどと思わせられました。

お掃除って意外に難しいもので、
人の毛髪や垢や汗、皮脂、体臭・・そういうものはあっという間に溜まってしまいます。露空ではあっという間に黴もはえるし、蜘蛛の巣も半日あれば新しいものがはってしまうし、埃だってすぐ積もってしまいます。

ふとした気の緩みや怠惰や疲労などの身心のありようは、あっというまに店内に反映されてしまうものです。

人の毛髪を掃いていると、毎日こんなに落ちるんだと感じるし
毎日こんなに落としていることを自分は気づいていただろうかと思うし
気づかないで何をしていたのだろうと思うし
気づけない自分のくせに、自分はこんなに偉いんだ賢いんだ生産性のあることをしていると声高に叫んだところで、格好つくものだろうかと思ったりします。
そう考えていくと病んでしまいそうですが
でも無心に掃除していると、自己肯定感がとても上がっていきます。
不思議です。

清掃は下に見られがちな仕事です。
後始末をするものだから。
後始末をしてもらえる人は特別だから。
そんな考え方も世の中あるのかなと思います。

でも無心に掃除していると、心が静かになってスッキリします。
思考停止でしょうか?
毎日きれいにして、毎日汚れて、それがなんなのか
それが私の悩みでしたが


そこへこの日、遺伝子に思いを馳せたことで
福岡伸一先生の動的平衡のことを思い出したのです。

分子細胞生物学的な視点から考えると
人は食物を摂取するとあっという間にその食物の分子が体の成分になり、そしてまたあっという間に体の外へ抜け出すそうで
人間は流動体のような生命なんだそうです。

落ちた髪はつまり死です。
昨日まで生の中にあって、今日死んでいる人の姿です。

清掃はそう考えると死を見て生を感じる作業です。
その諸行無常の流れの中にある自分を感じます。


その流れを感じて、その流れの中、今ここにある自分を感じる。
生の手触り、ダイナミズムを感じます。

たったそのことが、自己肯定感を高めてくれる仕組みのように思います。

禅語で乾屎橛ということもよく使われますが
仏性とはなにか。乾屎橛だ。という問答らしいのですが難しいなあと思ってきました。

食事をする。排泄をする。排泄したものが次の生になる。
その生と死の流れの中にある自分に気づくのが禅であるならば
そりゃ乾屎橛です。

また、その流れの中にあるのは自分だけでないことに気づくのも禅かなあと思います。
自分が落としていたけど気づいていなかった何かを始末してくれていた人がおり、自分に命を捧げてくれた生命がいると思うと、感謝に頭が下がります。その届けることのできない他者の存在への感謝という祈りが信仰ではないでしょうか。



最後に

新型コロナウィルス感染症のパンデミックや、世界各地での戦争、自然災害、経済混乱などあるなかで、不安も人それぞれ強くあると思いますし、私自身は膠原病とアレルギーで自分の免疫細胞と取っ組み合って、いかに苦痛を減らすかをテーマに過ごしている日々ということもあり、何かと激しすぎる社会に対して思うことも多々あるのですが

この催しでヒントになったことがきっかけで色々な悩みや疑問をすこしずつ整理することができています。

たとえば、なぜ日本には修験道好きな若い人や、支離滅裂なスピリチュアル思想が好きな女の人がこんなに多いんだろう?という疑問は、「自然」は皆の中にあるものだからと腑に落ちましたし

どうして人というのは強すぎる欲望や劣情を抑えられないのかなあ、禅のような足るを知る教えが広がらないのかなあという不満な思いは、物質が満ち足りた文明下では物欲を持たない人間が一気に増えるのだという安心感を得ることができました。

また改めて福岡伸一先生のご著書や、NHKのヒューマニエンスを見なおしたことで、
私のような遺伝子がちょっとヘンテコで病気がちな人間はよく、生きてる意味がないなど人前ですらあげつらわれることもしばしばですけども、
生物の多様性が生物の持続性を高めるのだから、ただ在るだけでも生物全体に貢献できてると思えています。
そのことを、今後、お掃除をしたり、お花を生けたりするときに、思い出せたらよいと思うのです。

お庭の片隅に咲いているものを見てもらえるよう生けています。


そして動的平衡論とおりに考えれば、おそらく個人個人めいめいがこのような思いや言葉を発信、伝達していくことが、子どもたちや若い人たちの身心に入っていって、神経回路を走る信号として、新しい生命の遺伝子に少しずつ影響をしていくものなのだろうと思います。
人間の知性や創造性がある意味とは、時間を飛び越えて10年20年で得た経験や苦労を抽出した知恵の言葉を教育として子供たちに吸収させ、遺伝子に吹き込むためなのではないでしょうか。
もしかすると思想として体系化するのは人類の進化には間に合わない後付けみたいなもので、変化に適応しているその場でのエモーショナルな溜息や呟きのほうが、影響力はあるのかもしれない。
でも説教みたいになるのは嫌なので、空気みたいに伝わるのがいいなって思います。
拾う人がいるかもわからない、瓶に入れて海に流す手紙の気持ちで書けばいいのかなって思います。

頭の中にあることを言葉に出すのは面倒くさいのですが
今日はそういう理由で、まとまらないなりに、ちゃんと書いてみました。

もしかしたら近い未来
AIをアウトブレーンにすることで
人間は思考や言語を手放してしまうかもしれません。
飢餓という課題を解消するために人類が記憶力や知力を高めてきた生物だとしたら、もしかしたら今は、多少それらを手放したほうが、増えすぎた人類全体にとっては飢餓の格差を解消し、平均的幸福をもたらす方法なのかもしれないなとも思ったりするのですが
私自身はもう少しだけ言語への執着を諦めたくないようです。




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