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【短編小説】鈍色のサウスポー

掌に収まったメダルの中心には、
太陽に照らされた
金色のダイヤモンド旗が輝いている。
確かな重みを首に感じた時、
僕は日本の頂の景色を見た。
割れんばかりの拍手と
歓声に包まれた球場の真ん中、
僕は右の拳を空に向かって突き上げた。

「徹也、日本一おめでとう!乾杯!」

社会人野球日本選手権大会を制した年の瀬、
地元では恩師を始めとする
三十四期平野高校野球部の
懐かしい面々が揃っていた。
僕の隣には、副キャプテンの聡が座っている。

「本当に徹也は立派だよ。俺たちの誇りだ」

酒が回っているのか、聡はえらく饒舌だ。
「俺はあの夏で完全に燃え尽きた。
けどお前はずっと野球から離れなかった。
それでとうとう日本一までに
なっちゃったんだもんなぁ」

見渡すと、丸坊主だった皆は今や
カチッとスーツを着こなす
立派なサラリーマンになっていた。
僕は飲みかけのジョッキを見ながらぼそりと返した。
「俺には、野球しかできなかったからさ」

うっすら目が充血した聡は、しみじみと呟く。
「みんな、キャプテンを誇りに思ってるよ」
気恥ずかしくなった僕はグイッとビールを飲んだ。

「そうだ徹也、高木さんのこと知ってるか?」
「マネージャーの高木さん?」
「高校卒業してすぐ親父さんが借金つくってさ、
家族でいなくなったんだよ」
「それって…夜逃げ?」
「まあそんなとこだな。
何年か前に隣町で見かけたって噂もあったけど、
どうだか」

地元を離れて十年、
一度も思い出すことはなかった彼女を、
その瞬間なぜか急激に懐かしく思った。
彼女の白い左手が、
黒く滲んでいたのを思い出した。



「あの、マネージャーになりたいんだけど」
教室の机に差し出された入部届には、
右下がりで癖のある文字で
『二年五組・高木繭』と記されていた。
眼鏡をかけた色白の彼女のイメージは、
どうにも野球とは結び付かない。

「野球、好きなの?」
「まあ、お父さんがよく観てるから」

入部動機はよく分からなかった。
しかしマネージャー不在の野球部には
彼女の存在が必要だった。
「今年の平高は甲子園に行ける」
そんな大人たちの評判に
すっかりその気になった僕たちは
『甲子園初出場』の目標を掲げていた。

例年に増して指導に熱の入る監督は、
選手だけでなくマネージャーにも厳しく接した。

「おい!ちゃんとボールを渡せ!」

ノック練習の時、右手を差し出す監督に
高木さんは利き手の左でボールを渡す。
それがどうも毎回ぎこちなく噛み合わず、
よく𠮟られていた。

ドリンク作りでは
部員が締めた水筒が開けられず、
校庭脇の水飲み場でうずくまり、
何分も蓋と格闘していた。

そんな不器用な彼女を遠目で見ながらも
当時の僕は、ただひたすら
ボールを追いかけることだけに意識を向けた。

「春までにスコアブックを書けるようになれ」
冬の入り口、監督にそう告げられた彼女は、
授業の休みごとに
『スコアブック書き方完全本』
なるものを机に広げた。
背中を丸め、ページの至る所に
左手でマーカーを押し当てる彼女の姿を見るたび、
僕は背筋が伸びた。


そして迎えた最後の夏。
平野高校はついに決勝戦の九回裏を
0対0で迎えた。
正捕手として僕は、ホームベースを死守していた。

ツーアウト三塁、甲高い金属音と共に、
ボールは僕の右前方へ高く打ちあがった。
マスクを投げ捨て空を仰いだ時、
太陽の煌めきが僕の視界を覆い、
白球は一瞬行方を眩ませた。

次の瞬間、
ミットの先をかすめたボールが
黒土の上に転がっていた。
慌てて拾い、ホームを振り返った時には、
もう遅かった。


銀色のメダルを首に下げた選手たちが
スタンド裏で同級生や保護者たちに囲まれる頃、
隅の方で一人壁に向かって佇む彼女の姿を見た。

首に下げられているのは真っ白のタオル。
彼女は空を仰ぐように、涙を拭っている。
夕陽に照らされた彼女の左手は、
黒鉛が滲んで鈍色の輝きを放っていた。

彼女の書いたスコアブックを僕は開いた。
右下がりの文字で綴られたスコアの最後には、
Eのマークが濃くはっきりと刻まれている。

僕らの夏は、終わったのだ。



「俺さ、後悔してるんだ。高木さんのこと」
「夏の大会の決勝の後のこと?」
「ありがとうの一言くらいかけてあげてさ、
泣いてる背中さすってあげればよかった」
「そんな器用な男、徹也じゃないよ」

聡は笑って続ける。

「お前はさ、ダイヤモンドの頂点で光り続ける
野球バカでいてくれよ。
お前は俺たちの希望の光なんだよ」

そう話す聡の横顔を見て、
目頭の熱くなった僕は何も言えず、
右手でジョッキを煽った。 

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