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【短編小説】1LDK叙事詩


「じゃあ、そろそろ行くね」
そう言って洗面所から出てきた彼女の唇には
薄いピンクのリップが塗り直されていた。
「おう」
案外あっさりと訪れた別れの瞬間に
拍子抜けした僕は
思わずそっけない返事をした。

「荷物、これだけ?」
彼女の足元にまとめられている
2.5周分の四季の洋服が詰め込まれた
大きめのキャリーケース1つと
よく分からないタイトルの本が
びっちり詰まった2つの大きな紙袋は
28歳女性の2年半に渡る暮らしの痕跡にしては
あまりに質素に感じられた。
「うーん、そうだね。まぁこんなもんだよ」
彼女は笑って答えた。

「駅まで送ろうか?」
「んーん、いいよ。タクシー呼ぶし」
「そっか」
スニーカーにかかとを押し込んだ彼女が
踵を返し、僕に微笑みかけた。
「じゃあね。ちゃんとご飯食べるんだよ」
「うん。その…今までありがとう」
「こちらこそ」
彼女は深々とお辞儀をして
玄関の戸をそっと閉め、出ていった。


部屋に一人取り残された僕は
狭いリビングを見渡しながら思った。

彼女と付き合った3年半、
そして暮らしたこの2年半は
一体なんだったんだろう。
僕にとっては、これ以上何もいらないほどに
ただただ穏やかで幸せな日常だったのに。
彼女は一体、なにが不満だったのだろう。



「同棲しよう」
あの頃の僕のその言葉に
大した深い意味なんて無かった。

まぁ、僕だって馬鹿な男じゃない。
将来のことを考えられもしない相手に
“同棲”だなんて言葉を容易く使うと
後々厄介なことになるなんて
重々承知の上のあの台詞だったのだが。

1年間付き合った二人の間には
確かな相性と居心地の良さがあって、
互いに互いを求めすぎず干渉しすぎない。
一人でも楽しく生られる自立した二人の人間が
ただ偶然となり同士に居ることによる、
あくまで+αの幸せというか。

“僕が君に特別なことを求めない分、
君も僕に特別なことは求めないでね”
そんな僕の中に張られた虚勢を
言わずもがな彼女は察しているようだった。

一方で正直なところ、
わざわざ毎回待ち合わせをしてデートするのが
億劫に感じられたのも本音だった。
そのくらい彼女は僕の日常において
“当たり前”の存在になっていたのも
また事実だった。

「一緒に住もっか」
そう言って二つ返事で承諾した彼女を見て、
やはり僕らは物言わずとも通じ合えていて
煩わしい話し合いなんて必要ないのだと
確信できた。

僕はこの二人の間に存在する
“自立した愛”みたいなものが
誇らしくさえあった。


「どんな部屋に住みたい?」
スマホ片手に嬉しそうに物件を見漁る彼女は
普段の印象とは少し違い
無邪気な子供みたいで可愛かった。

普段の彼女はといえば、
冷静で落ち着いた話しぶりが印象的で
僕がかまってあげられなくても
勝手にご機嫌に過ごしてくれるような人。
時折見せる、瞳の奥に青色の炎を宿したような
真剣な眼差しが逞しくて凛々しくて、
どうにもそれが魅力的だった。

「んー、そうだなぁ。別にそんな、
ちゃんとした部屋とか必要なくない?
毎日一緒にいられるんなら
俺はなんでも幸せだし」
そんな僕の回答に、
一瞬の沈黙を置き、彼女が返した。
「そうだね。一緒にいられたらなんでも幸せだね」
彼女はそう言って笑ってくれた。
僕はなんだか、ホッとした。



そうして秋口に暮らし始めた二人の家は
駅から徒歩15分、家賃6万2千円の
北向きの1LDKだった。

ただでさえ日当たりの悪い
北向きのベランダの前には
大きな桜の木が植えられていた。

彼女がやけにその木を気に入ったので
この部屋に決めたのだが
煙草を吸いにベランダに出る度、
枝葉がこちらに乗り込んで来ようとするし
2階からの眺めを遮ってくるのが鬱陶しくて
僕はその木があまり好きじゃなかった。


とはいえ、この部屋で繰り返された
彼女との日常は、つくづく幸せだった。

朝少し早く家を出る僕の後ろを
彼女はてくてくと付いてきて
眠い目をこすりながら笑顔で見送った。

仕事中にふと鼻をかすめる柔軟剤の香りは
彼女のそれとお揃いで、
どこにいても同じ香りを纏う二人は
いつまでも側に居られる感じがした。

家に帰れば温かい食事を囲みながら
僕の今日一日の愚痴も弱音も小話も
彼女は毎日、飽きずに聞いていた。

休みの日にも特別なことなんて必要なくて、
テーブルには彼女の淹れたコーヒーがあり
ソファーに肩を並べた二人はそれぞれ
僕は大好きな漫画、彼女は難し気な小説を読み
ただただ週末の時間を
混ざり合い溶け合うように過ごした。


思い返せば僕達の2年半の同棲生活には
なんの嘘も偽りも存在しなくて
同時にそこには、
未来さえも存在しなかったのかもしれない。
どうやら僕は、ただただ“今”という
日常の幸せを享受することで
充分すぎるほどに満たされていたようだった。



三度目に訪れた寒い冬のある夜、
いつものように僕は
眠りに落ちそうな彼女の体に
するりと掌を這わせようとした。
すると彼女は突然こんなことを尋ねてきた。

「ねぇ。ちゃんと好き?」
僕は少し驚いた。
そこら辺の普通の女の子みたいな
そんな女々しい言葉は
彼女らしくないと思った。
「どうした?そんなの当たり前じゃん」
僕は彼女をぎゅっと抱きしめてみた。

「そっか」
そう言って彼女は
いつものように僕に体を委ねた。


あの夜の彼女らしくない言葉が
どうにも気がかりだった僕は
自分なりに考え、一つの結論にたどり着いた。

籍を入れて、結婚しよう。

28歳の女性が欲しいもの、
それは幸せな結婚生活だろうと踏んだ。
自分以外の誰かに、確実に愛されているという
目に見える保証と社会的ステータス。
僕ならそれを彼女にあげられる。


プロポーズという名の
とっておきのプレゼントを持ち帰った僕は
いつになくそわそわしながら
夕飯の支度をする彼女の背中を
じっと見つめていた。

そして食卓に座った時、
とうとう僕は彼女への精一杯の愛を
口に出した。

「俺たち、そろそろ結婚しない?」

彼女は驚いたように僕を見つめながら
一筋の涙を流した。

そうして何故か、静かに首を横に振った。

「ごめん。あなたとは結婚できない。
それと、言おう言おうと思って
なかなか言えなかったんだけど、別れて欲しい」
僕は意味が分からなかった。

「…え?…なんで?」
「欲しいものがあるの」
「なに?何が欲しいの?俺にはあげられないもの?」
「分かんないよね。私が欲しいものなんて」
僕は少し、ムキになって語気を強めた。
「分かるわけないよ、そんなの。
言ってくれなきゃ分かんないよ」
彼女は目を閉じ涙を溢しながら、
何かを悟ったように小さく頷いた。

「この暮らしじゃ、手に入らないの。
自分で手に入れたいものがあるの」
「俺が隣にいちゃダメなの?」
「うん。もうダメみたい」

そう言って
真っ直ぐ僕の目を見る彼女の瞳には
涙に濡れたとて到底消えそうにはない
青い炎が煌々と燃え盛っていた。
そんな彼女の熱い瞳が、
やはり魅力的で堪らなかった。



彼女の居なくなった部屋で一人
ぼーっと寝転んでいた僕は
窓に目をやると外は薄暗くなっていて
洗濯物を取り込む時間だと気が付いた。

ベランダを開け、一歩外に出ると
彼女が最後に干していった洗濯物が
春の北風に揺られている。
まだ冷たいその風がピューっと音をたてて
洗濯物の隙間を縫う。
そうして僕の鼻もとまで
あの柔軟剤の香りを運んできた。

ついでに桜の花びらが
するりと一枚
僕らの部屋に舞い込んできた。

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