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「狐憑き」を通してみえるもの― ムラのなかで心の病が「受容」されるということ ―

現在「狐憑き」という言葉を聞くと、何かオカルト的な響きを持って受け取られますが、昭和10年代ぐらいまでの地方農村部では体調の不良、特に精神的な不調・疾患を抱えた方や、その症状を指すものとして理解され、また身近な「世間話」の一部として人々の間に存在していました。
これよりも以前、西洋医学を基礎とした科学的理解(精神医学)が一層浸透していなかった時代の共同体において、精神障害者はどのように「理解・受容」され、ムラ社会の中で「機能」していたのでしょうか。

今回は、前職で学芸員として民俗学研究をしてきた長村明子カウンセラーに、民俗学的視点から見た精神障害とケアの姿、また現代へ引き継がれて来た日本人の精神性や近代医療がもたらしたスティグマ構造の一端について論じていただきます。


「狐憑き」とは何か…あるフィールドワークの記録

狐やクダ(鼠)に憑かれるとさ、顔つきが変わっちゃうのよ。…こう、なんていうか目がギーって吊り上がったみたいになったり、二晩でも三晩でも寝ないでチャバラ(茶畑)を駆けまわって神さまからのお告げだとか叫んだりね、そうすると皆で、“ああ、こりゃ狐が憑きよったぞ”って騒ぎになって…

2000年の夏、教育委員会による民俗誌編纂調査で訪れたA県の山奥のムラで、私は初めて「狐憑き」にまつわる世間話(ここでは口承による物語の意)を耳にしました。大正時代に生年を持つ話者の方々からは、当たり前の出来事として、ある日突然村人に起きる「異変」の様子が語られます。

狐やらクダは誰にでも憑くのよ。私らがよく言ってたのはお金で困った時、あと女性問題とか。人のお金に執着したり、想い人のいる女性と無理やり縁談を決めたりするとよく憑くから気をつけろって言われてたねえ。

『…憑かれた方はその後どうなっちゃうんですか?』

ペンを止めて聞く私に、話者の隣に居た年配の女性がほほ笑みながら答えます。

カンタンよォ、暴れるもんだからやっかいでしょ。村の力の強いのがバッと抑えてね、隣村の禰宜さん(神職)呼んできてさ、色々してもらってから…ほれ、あそこの沢で狐を“流して”もらうの。

詳しく聞けば、狐に憑かれた者は例外なくおこわ(赤飯)や油揚げを食べたがるので、釜で炊いて、まずはたらふく食べさせるのだそうです。神職に祓ってもらった御幣(ごへい)と、食べ残しのおこわと油揚げで作った弁当を持ち、近親者が付き添って村境の沢まで連れて行きます。沢で「行けよ」といいながら、御幣と弁当を藁に包んで川へ流すと憑き物は落ちるとされていました。
その後、憑き物が落ちた村人は、自宅やお寺のお堂でしっかりと休養をとることが定められていたといいます。

『狐が落ちたら、元の性格にもどるんですか?』

重度の双極性障害や統合失調症を患っている近親者がいる私は、疑うようなトーンで質問をしました。
「すっかり元に戻る」、きっとそう答えるのだろう、それがこの集落のファンタジーなのだと高を括っていた私は、返ってきた言葉に金槌で殴られたようなショックを受けました。

いやあ、そりゃ完全に元のようにはならんよ。だって“狐が憑いた後”だから、変わってしまって当たり前でしょう。


憑き物による「憑依」の共同体解釈と構造

何かしらの要因(遺伝的・環境的・ストレッサーetc.)ときっかけを伴って精神障害を発症したであろう村人が、ムラ(共同体)において「狐にとり憑かれた者」と理解・認識されることや、そういった者が一定の儀式を受けることで、ムラに再び受け入れられていたという事象は全国的に見て珍しくありません。

また前述の調査では、「狐が憑いた者」の中には託宣など神懸かり的な言動をするとの記述も含まれていました。これは、かつて柳田国男が分類した巫女の一種「神姥」の出現ともよく似ています。

ーーーもとより尋常の田に働く女であって、東北でよく聞くモリコまたはイタコのごとく、修行と口伝とを必要とする職業の巫女とは別であった。(中略)通例まさに霊の力を現わさんとする女は、四五日も前から食事が少なくなる。眼の光が鋭くなる。何かと言うと納戸に入って、出て来ぬ時間が多くなり、それからぽつぽつと妙なことを言い出すのである。(中略)そうでなくても産の前後とか、その他身体の調子の変り目に、この現象の起りがちであるのを、やはり新しい医学の理論などに頓着なく、全然別様の神秘なる意義を彼等は付与したのである。

柳田国男「妹の力」『柳田国男全集 11』ちくま文庫, 1990年

ここでは普段何の兆候も見られない女性が、産前産後や身体の調子を崩したことをきっかけとして、何物かに「憑依」され、前述のような経緯を経て、周囲から霊力のある巫女として承認される様子が伺えます。

川村邦光は著書『憑依の視座』で、近代の農村において神姥の霊力は衆人から承認されることによって成立している点、また、周囲の神姥を信ずる者が「神秘なる意義」を付与するところに霊力が成立する点の二つに注目しました。
また、川村は現代に起きた「憑依」事例として、1980年代の「コックリさん」にまつわる騒動を挙げ、これを人々の病気への対処行動や保健活動 を大きな1つの文化システムとして捉えたA.クラインマンのヘルスケア・システムの議論で登場する3つ のセクター(民間・民俗・専門職)を参考に論じています。

騒動の内容は、友人との降霊遊びにより「憑き物」にとり憑かれた少女が心身に不調をきたしたため医療機関を受診するも、症状の改善は認められず、悩んだ末家族が求めた霊能者による除霊で治癒したというものです。

独立した専門職セクター(医療機関)の『身体内あるいは精神内の機能不全』という解釈だけでは治癒しないものが、民間セクター(家族)と民俗セクター(霊能者)という合同の枠組みに基づいた「憑き物」、つまり『外在的な要因や超自然的実体の侵入・影響によるもの』という解釈に基づいた排除の儀式を行うことで解決した点は、「憑依」が社会的な関係に規定される解釈や評価を伴う文化的現象であるといえるでしょう。 

このように、共同体による解釈・承認の上に成立する「憑依」という現象が、コミュニティの中で精神障害者を摩擦なく内包するための重要なファクターとなっていたことが考えられます。


「狐憑き」の歴史(奈良~近代)

狐が人を化かす、あるいは人に取り憑いたという説話のモチーフは古くからあり、奈良時代末期から平安時代初期に成立した仏教説話集『日本霊異記』下巻第二にある、 狐に憑かれた人が死に至ったり、人に憑いた狐が犬に噛み殺されたりする話(永興説話)が現在確認される中で日本最古のものとされています。平安時代末期に成立した『今昔物語集』本朝附霊鬼部第四〇にも不思議な力を持つ白い玉を持った狐が女に取り憑く様子が描かれており、当時の憑霊信仰を色濃く反映していると考えられます(酒井,2013)。

鎌倉時代に成立した『宇治拾遺物語』には、食べ物欲しさにやって来た狐が修験者に憑りついた話が載っています。狐はその口を借りて「しとぎ(粢:米粉やもち米で作った長い卵形の餅。神前に供える)でも食べて帰ろう」というので、人々は修験者本人が粢を食べたいだけなのではないかと怪しみつつも、望み通りこしらえて食べさせました。さらにはその残りを紙に包んで土産として持たせてやると、やがて憑いていた狐は去り、修験者は卒倒・昏睡します。目を覚まし起き上がると、懐に入れたはずの紙包みが消えていたことで狐の存在が確認されたという内容です。

もち米を食べたがる・食べ残しを包んで(狐に)持たせると消失するなど、前述のフィールドワークで得た「狐憑き」事例の中に登場する祓いの儀式と共通するモチーフがあり、近代の地方農村部にこの類型の説話が口承伝播している現象を調べる上でも非常に興味深い内容となっています。

江戸時代になると、この時期の都市文化を代表する言葉である「伊勢屋、稲荷に犬の糞」のように、商売神として祀られる狐=稲荷神が現われます。稲荷神は当初、農業神としての性格が色濃かったものの、都市部においてしだいに商売の神など多岐にわたる「生産」の神としての性格を獲得しました。この場合、狐は人ではなく「家に憑く」とされ、これにより現世利益を求める人々の信仰の対象として急激に民間へ浸透し成長していったことは、近代以降の「狐憑き」事象を理解するうえで重要な手がかりとなります。特に明治期における北九州の炭鉱などでは、「験担ぎ」として行われる巫女や山伏が説く狐霊信仰が隆盛を極めました(伊藤編,2016)。


精神医学から見た「狐憑き」

「狐憑き」を病気として観察・分析しようとする視点は、明治期の精神医学の導入よりも以前、香川修徳の著した『一本堂行余医言』という江戸時代の文献にみることが出来ます。

ーーー俗に狐憑きと称するものを視るに、皆これ狂症なり。野狐の祟るところにあらず。真の狐憑きは百千中の一二なり。

呉秀三編『呉氏医聖堂叢書』1923年に所収

それまで多様な心身の「異常」について大まかに「狐憑き」と総称されていたものについて、香川は「癇」を「驚」・「癲」・「狂」に分割し、「狐憑き」という名称そのものを否定しました。

【驚】…「いつも驚恐・畏怖」を覚える症状
【癲】…「癲癇」
【狂】…以下のとおり
(香川修徳は「狂」の定義をすることはなく、多様な症状を羅列するにとどめています)

【狂の症状】
猜疑心が深くなる・人を恐れ人を拒むようになる・終夜眠らずに妄想にとらわれ深く考え込む、清潔にしすぎる、傲慢で自惚れが強い・憂愁すべきでないことを憂愁する・ひとりで笑い喜び狂乱をなし本心を失う・歌い笑いやっきになって走り回る・高い所に上り垣根を跨ぐ・高貴で才知があると自らおごりたかぶる・自分で経験したこともないことを見たという・低い声で独り言をいい人を避けて隠れる・親疎の別なく罵る・着物を破り器を壊し異常な力を発揮する・着物を着なくても寒さを感じない・よく鬼神をみる

川村邦光『幻視する近代空間ー迷信・病気・座敷牢、あるいは歴史の記憶』青弓社, 1990年 参照

実証的な観察とは言い難いものの、当時世間に広く流布していた宗教的・迷信的な視点とは一線を画すものであったことは間違いありません。

明治期に入り、太政官布告による西洋医学の採用が決定した後、精神医学の講義を日本で初めて行ったのは1875年のW.デニッツ、次いで1879年の内科医E.ベルツでした。ベルツは1885年に「狐憑き」だとみなされた女性を診断・治療して論文「狐憑病説」を発表、その症状を脳の障害に起因するヒステリーであるとしています。
1887年には東京帝国大学医科大学精神病学教室の初代教授であった榊俶による「狐憑病」の症例報告が行われた際、西洋の「狼化妄想症」(Clinical lycanthropy)にならい、「狐憑・人狐」(Alopecanthropy)と名づけられました。
1892年から島村俊一が島根県下における「狐憑病」の実態調査を行ったことを契機として、門脇真枝や森田正馬を含む数多くの精神医学者によって同様の調査論文が発表されました。「狐憑き」はやがて狐憑病(症)⇒憑依妄想⇒祈禱性精神病という順で、憑依そのものから宗教的な意味合いを帯びた抽象的な「病名」へと変化していきました。


分断・隔離・解体される「狐憑き」のコスモロジー

精神病学の創立者として知られる呉秀三が『精神病学集要』に寄せた序文には、精神障害は治癒可能な「変質性遺伝性の疾病」であるとの見解と共に、精神障害者については「他人の財産生命」を落としかねない「凶悪危険」な存在であるとする言葉が明記されています。

この時期、かつて「狐憑き」と呼ばれ、共同体の中に内包されてきた精神障害者もまた「巨悪危険」な存在とされました。当時精神障害は「遺伝性の疾病」であるため、一国の生産功業に多大な影響を及ぼす「国家的疾病」として管理されるべきとの論調が強く、実質上は座敷牢への監禁私宅監置が合法化される内容であった「精神病者看護法(1900年)」を批判する形で、精神病院への入院の奨励・国立精神病院の増設が次々と提唱されました(川村,2007)。

ーーー国家及び社会は精神病者を病院に使用することにより社会の安寧秩序を維持し利用者の件犯罪行為を防遏し得る利益あり

呉秀三『精神病学集要』吐鳳堂書店, 1894年 参照

これ以降、「狐憑き」は共同体や民間治療の領域から遮断されることとなり、それに伴う解釈や枠組みも表面的には転換・消失していきました。


おわりに

オープンダイアローグや当事者研究が注目されて久しいですが、私たちカウンセラーが日々関わるクライエントやその周囲の人々が受ける、精神障害への誤解や偏見・差別感情は根強く、それに伴う当事者の「恥」の感情が医療・行政・福祉機関へ繋がることを遠ざける一因となっていると感じます。

今、あらためて『だって“狐が憑いた後”だから、変わって当たり前でしょう。』という台詞の持つ、共同体としての懐の深さと温もりを思います。



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