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憤ることがなくなるから、愛されると困る

こんばんは。スナックゆう子ちゃんです。

20代はずっと小説を書きながら、精神安定剤をガブ飲みして救急車を呼んだり、生きることに悲観して丸坊主にしたり、大学を中退したり、なにかと幸福な人生と逆行してました。そういう時って、あるよね〜。

あの頃は「満ち足りてしまったら小説を書けない」という恐怖があったので、敢えて幸せや安定を遠ざけていたよね。太宰治みたいな人を小説の手本にしてたからかしら...

それにしても幸せな人は小説なんか書く必要ねーもんな。っていうのはずっと思ってたよね。

ほんで、小説自体はもう書かなくなってしまったのだけど、それでも何かと悲しいことや憤ることは人生の中で起こっていて、それがnoteを始めた原動力だったのね。

それがたった16日投稿を続けただけで、なんとなくずっと自分の中にあった憤りがなくなってしまって、なんか困ってる。

イタリアに住んでる彼氏と毎日LINEして"I love you"って毎日何度も飽きずにお互い言い合って、私が考えていることも否定せず聞いて受け入れてくれるし(名前を変えた時も「君がハッピーなら僕もハッピー!」と言われてそれから新しい名前のほうで毎日呼んでくれる)息子も大した問題なく元気に育ってるし、今日も一緒に公文式の宿題やって勉強楽しいな〜と言い合って、仕事の方もコロナの自主休業が明けて6月から「ゆう子ちゃんにネイルしてほしかった〜!」て方にまたネイルすることができて、などなど、なんか満ち足りた生活が続いていて、憤るネタもなく毎日ぬるい内容の文章を垂れ流してそれでいいのかと、なんかどこかで困っている。

「いつでも機嫌のいい人でありたいな」という願いもある一方で「どこかに陰がある人間でもありたい」という、自分のナルシストぶりがヤバイなとは客観的に思う。

しかし実際、こんなに人に愛されたことが初めてで困ってる。

彼氏からも息子からもお客様からも私が必要とされて「あなたがいると嬉しい」というメッセージを受け取りながら、なんか困ってる。

「私は要らない人間なんだ」って思いながら毎日泣いてた頃のほうが楽だった気がする...し、「自分は存在するだけで迷惑なんだ。生まれてこない方が良かったんだ。皆、私のことを死んだほうがいいと思っているんだ」って思ってみると、今も逆にほっとしちゃうよね。あ〜やっぱりな。思ったとおりだよ。みたいな逆に安心感ある。おのれが要らない人間だと思ってたあの時に死んでしまった方が、楽だったろうな。困ったな〜...

このまま幸せがデフォルトの人間になったら、何か書くことをやめてしまうんだろうか。もしくは、何の薬にも毒にもならない、もっとクソみたいな文章を垂れ流すようになるのだろうか。後者のほうが嫌だな。

今日の一枚:パリに太宰治の小説を持っていったら駅構内にアニメになった人間失格のポスターがあった時のやつ

今日の一曲:Magma / De Futura

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