人生は、「目の見えない世界での道」

俺とて未だに、人と話す時、所詮結局この器の声帯を通したこの器の声としてしか聞こえていないのだということにある種のショックというのか、再認識することはある。

なぜなら通常人が自分の話す声を聞こえているのと同様に、俺も交代人格時代から自分の話す声も聞こえているわけだから。
(内部で話していた時は交代人格としての己の声が聞こえていたし、器の意識を持っている時は個人の声と器の声と両方の声を認識していた)

しかしながら、人によって全く同じ音が耳に入ってきても、その聞こえ方や印象は実は全く違うものなのだということがわかると、結局関係ないのだ、大丈夫なのだということに気付く。

実際、聞き取りをしてみると、俺の声も、かなり「器」の声の印象が強く聴こえている人と、「器」の声なのだが中性的であったり性別が良くわからない程度に聞こえている人、なぜだか内部の交代人格の声に近いような聞こえ方をしている人、など、本当に様々いることがわかった。

そして、どのような聞こえ方をしている誰であろうと、良い印象を抱く時(ひと)はそうするし、そうでない人はそうしない。
そして、人は聞きたいように物を聞き、見たいように物を見る。
(その聞こえ方や見え方が自分に不利だと感じて生きづらい人を、私はセラピストとしてお手伝いしているわけでもある)

ただ、あるがままだけなのだ。


そして…ひとは、自分がどう見えているかどう聞こえているか…だけではない。


私はクライアントさんに良くこういう例えをする。
「意識の社長さん(意識領域)は、目の見えない人と同じである」と。
(これがどういうことなのかは、この記事では割愛する。これについては別の記事をご覧いただくか、私の交流会やセッションなどご利用いただきたい)

ひと(意識の社長さんたち)は、目の見えない中であらゆるものが乗った大きなテーブルを前にしているようなものである。
そして、そのテーブルには本当にたくさんのいろいろなものが乗っている。そして、今、今、今を追うごとに、どんどんテーブルの上に乗っているものも変わっていく。
その中で、ひとは、ゆっくりと手探りでテーブルの上のものを探り、何があるかを確認していく。これが人生の過程でもある。そして、ある程度のものに触れたら(これは実際視覚障碍者にも同じことが多いため、例えになっているわけだが)、ひとは、何やらそれ以上探りづらくなったり、ある物を確認したらその確認できたものだけが乗っている(認識したものが全てだ)と、ついどこかの段階で思いがちなもの。
しかもある程度探ったら、次の瞬間、まさかテーブルの上に載っているものが増えたり入れ替わっているとは、つい思わない(過去の状態が定着したままになる)ものでもある。
そして、下手をすると、テーブルをゆっくり探って、初めて最初のもの…コップか何かに手指が当たって、それでつい「あ!何かに当たってしまった!障害物だ!何か硬かった!どうしよう困った!」といわんばかりに、ほんの少し触れただけで委縮してしまうこともある。
これに関しては随分以前に挙げた記事も参照していただくとよりイメージしやすいかもしれないが…
こういう場合も、これは実は障害物にあたったのではなく、やっとテーブルの上を探り出すことができるための、第一の目印、寧ろあなたを助ける手がかりなのだ。
しかも、それも、指先がほんの少しカツンと当たっただけで「硬い!」と感じ手を引っ込めてしまったが、実はそれは、本当に美しい…しかも例えば触ってもわかるような素晴らしい装飾まで施されたコップであるかもしれない。「あなたが」先走って決めつけて、触るのをやめただけなのだ。

そのコップを辿ればもしかしたらすぐ隣のわかりやすい位置に、皿があるかもしれない。この皿も、もし見つけたとしても何の変哲もない皿と思うかもしれないし勝手に自分ルールで予測をして決めつけるのは勝手だが、その皿もいろいろな角度からいろいろな触り方をして探ってみたら、何とも言えぬ美しい曲線美があったり、細かいところに装飾が施されているかもしれない。

意識の社長さんとは、例えるなら目の見えないひとと同じである。
実は、つい目の前のものがわかった気になっている、しかもなまじ肉体の「目」というもので目の前のものが見えているようなつもりにさえなっている(これも実は、殆ど世界も現実も「見て」いないにも拘わらず。―これも、身体のメカニズムなどを学ぶと目から鱗で良くわかる)から、だから実は、まだまだテーブルの上の一番手前のコップのたった1㎜程度に触れただけなのに、それが全てだと思い込んでしまう。

…不安や不満を感じるのは、実は、不快なものに触れているからではないのである。
実は、最初に触れた「それ」以外が、「わかっていない」から不快な感情が生じているのである。
「見えていない」ことによるものなのだ。
そして更には、「それ」にも、ごくごく僅かにしかも決まった角度からしか指を伸ばすことができていないからなのだ。

実は、あなたの目の前のそれは、美しい装飾が施された、それこそともすればあなた好みの素敵なコップである。
それに気付けないのはもったいない。そして、それに「気付かない」自分を”選んでいる”から、不安や不満があるのだ。
なぜなら…あなたの潜在意識は、意識の社長さん(あなた)が手探りしているテーブルの上も、全て見えているから。

私は、実際に「視覚が利かない」状態で外にも出るようになってからひたすら痛感するが、例えば食事の席で目の前の膳の内容を探るのに、ついつい決まったほんの僅かな方向からしか探ることができず、探っても結局何がどうなのだかよくわかっていない、わかっていないのに、ついわかったつもりになってしまっていることが本当に多い。
そしてそのもやもやや不安が先立って、いつのまにかそれ以上探ることすらできなくなってしまっている(そしてそれにすら自分で気付いていない)。

しかし、あなたの目の前にあるものは「あなたの人生」である。いろいろな方向、角度から、手を伸ばし探ることができるものなのである。
自分の軸(ペース)でじっくりと自分の目の前(足場)を探っていると、実は、本当に目の前に、思わぬ「好き」「快」が、あったことに気付く。実は目の前真正面手前に。
もしかしたら、時にはナイフに触れるかもしれない。しかし、このナイフすらも、実は「不快」でも「あなたの敵」でも何でもない。料理を切ったりする、あなたに必要不可欠な道具を見つけることができただけなのだ。
もしかしたらテーブルの端に行き当たるかもしれない。これだって、あなたがテーブルのふちから落ちてしまう不快なもの、ではない。テーブルの端がわかるから、ああ、どちらの方向に手を伸ばしていけば良いのだ、ああ、テーブルの面積はこれくらいか、など、たくさんのあなたに必要な物事が手に入るのだ。

そして、時にはもしかしたら、決まった角度からの探り方では、前に探った時と同じようなものが同じような配置で置いてあるように感じて、前と同じ状態だと一見感じるようなこともあるかもしれない。
しかし、人生、必ず前に在るのは未知の世界である。
同じような角度から同じような触り方だけしていれば手に入る情報が今までも少なかったから、似たように見えたとしても、実は、置いてあるものも全て違うものであったり、別の角度から探ってみたら、実はその配置ですらもまるで違って目新しいものであった、ということにも気付くかもしれない。
(ちなみに往々にして一見似たようなものが来るということは、あなたが、やりさえすれば別の角度からも探ることがもうできるようになっている、ということでもある)

いろいろな角度からいろいろな探り方ができる、という表現は、あなたの人生のあらゆる可能性を拓いていくということ、そして、あなたの実は目の前にいつもいつもある「好き」「快」にできるだけ多く気付くことができるようになり(それでもいつもそれ以上にあなたの大好きなものが視界にはあるのだ、もったいなくはないか)、人生にどんどん深みを増していく、ということである。


そして…そのためならば、セラピストとしての私は、何でもするだろう
同時に、そのために、セラピストとしての私が在るのだろう


視覚が利かない場合は、やはりどうしても、目の前のものをひとつひとつ探っていくにしても、独りでは難しいものがある。しかも、次々にテーブルの上の物が入れ替わっていくのだから(目の前の景色が移り変わっていく電車などに例えても良い)。
自分自身の揺ぎ無い専属手引き者である、潜在意識と、するすると対話できれば良い。しかし、現代における多くの人は、その疎通がうまくいかなくなっている。耳もうまく聴こえなくなっていたり、自分と手引き者との間に分厚い壁があったりして、手引き者の声をうまく受け取ることができない状態なのである。

そうしたら、私はいつも外側の世界でいろいろな人に手助けを受けさせていただいているように、あなたの手引きのお手伝いをさせていただきたいと思う。

私が、物理世界を視覚で判断することができず、しかも盲学校も行っていなければ専門家でもないため白杖の使い方や目の前のものの探り方も未熟であったり補助器具も万能ではないのと同じように、「人生の登山」は、目には見えないのだから。しかも、見えない登山道具を使い、しかも、目の見えない世界や道具には、専門家ではない、当たり前ながら慣れていないのだから。



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