『声』のお仕事

本日の個人的な日記

今まで自分でそこまで認めてこなかったが…

『声』のお仕事、『演技』のお仕事って、やっぱり楽しい、ことがわかった。

今まで「どうせ女の器の女の声が暴露されるだけだし(←寧ろ嫌悪とトラウマに近い)、女役やら”女子供のような声、優しい声、透き通った声、高い声”を求められるから」という理由で、寧ろいやだに近い思いすらあった。

しかし、最近、声のお仕事に挑戦する機会があり。

まずはボイスサンプル…
……やはり来た。
「お妃さま設定の台詞」
「女の悲鳴」
「子供の笑い」

ちなみに、サンプルを録る時は男性にも同じ紙を渡すのだろう、男性の台詞も印刷されていて、もし選べるならば明らかに我々にとってはこちらの方が性に合う、言いやすい、即座に入れる。
しかし、選べるのは(当たり前ながら)ナレーションサンプルだけだった。

…しかし…

今や、「この器」だからこそできる、「この器」を通してでしか顕すことができない宇宙・魂の計画の中の役割を、ただただ「筒」となって通したい、受け容れたい、ただただ愛と感謝を以て使われたい、それが私がここに遺されている唯一の理由だと思っていることもあるのか、
同時に概念の外側に出て「こだわる」必要も「反発」する必要もなくなったのか…

…何か、「今ここ」にいることが、楽しかった。
そして自我の上でも、声を使って表現をしていることが、楽しかった。
何かわくわくさえして、帰って来た。

…まあ…最初にお試しの初仕事もいただいて(そういうものなのだろうか?)、その報酬自体は小銭…交通費のやっと3分の1だったけれど!!
しかし、生活面から見ても、今はそれですらありがたい状況。

その上、一番最初にオンラインでの第一次審査があったのだが、その時に既に「声質も良いしできそうだから」と上の方にご評価いただいたらしく、その場で仕事のオファー…までではないが、ある企画のキャストオーディションにボイスサンプルを出してみる気はないかとのお声がけもいただいた。
キャストオーディションということは、まあナレーションなどではない。まあほとんどの場合、性別があるだろう。
それでも、いちもにもなかった。

かつて、日本で”新劇と言えば”という劇団の養成所のオーディション(しかもその審査員もしている劇団の女優さんの勧めで)を受けたことがある。
小さなミュージカル劇団で、キャストオーディションを受けたこともある。
実は劇団四季の何かのオーディションも手を出したことがある。

落ちた理由はもちろん明かされないのでわからないが、唯一その中で伝手があった養成所オーディションでは、どうやら実技は全く問題がなかったらしい。本当に入れようかとして下さっていたらしいのだが、”その期”の受験生たちが(基本的にこの世界はそういう性格でないと生き残れないのだろうが、それにしてもこの期だけ突出して)やたらめったら個性派で気の強そうな人ばかりだったのだそうだ。その頃の「我々、この器」を知っていたその女優さんは、「〇〇ちゃん、これで潰れちゃったら…」と、寧ろ配慮で、落として下さったのだと、後々こっそりと(母を通して)教えてくれたのだった。

そもそも、全て、落ちて、晴れて「女性」を世に出さずに済んで、「女性」を育てずに済んで、恐らく内心安堵もしていたような気がする。あとから思えば。

それでいながら、今回は。

…宇宙は、魂(無意識)は、良きタイミングで、最善の計画を”地球での器”に流してくださるのだ


追記:
解離性同一性障害(多重人格)は、もちろん本人たち個々(交代人格)は演技ではない。寧ろ、演技ができない人格も多い上、全く同じ身体(器)を使っているのにも拘わらず、そして直接知り合いなのにも拘わらず、中の他の交代人格の真似をさせたら(本気で似せようとしているのはわかるのだが)全然違うと言う面白くも不思議な現象さえ起こる。
だから、特殊な訓練、というのか表現者としての基礎訓練をちゃんとしない限り、交代人格は演技の幅は決して広くはないのだ。寧ろ、ひとつの感情しか担っていないパーツ的交代人格すら多いのだから(いずれにせよ交代人格というのは交流分析の機能分析で言うP,A,Cの割合は偏っている場合が多い)、多重人格=演技がうまい、いろいろな声も出せるという考え方は軽率である。
しかし、本当に客観的、外側からの見方をすると、彼らの中にはそれだけの「パーツ」があることは確かで、それがはっきりと分かれて自覚しているだけに、その部分部分を突出させることができているわけである。彼らは自覚の上ではしかしひとりひとりの「枠内」にいるので、人間が他の人間になれないように"他の人(枠)"になることはできないが、しかしそれらすべてをもし大きな魂の波で大海のように包み込むことができた時、そしてすべてをうまく連携させコントロールすることができた時、それだけの幅を発揮することができる(…はず)なのである。
何せ、自分の中のどこのパーツをどのように使えばどうなるかということが、今までの日常という訓練で、既に身体そのものでわかっているのだから。(無論、自分たちの中の「こだわり(概念)の枠」から抜け出し、自分たちの中に点在する問題を問題としなくなり、すべてコントロールできるようになっていればの話。更に言えば、頭の客観的分析とも繋げることができていれば、の話だが。)

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