診断は病気を作る、の深い意味

診断を受けて一体何になるのか。
診断を受けても病気が作られるだけじゃないか。

このような考えを持っている人は、実際少なくはない。

また、私も、古代の医師ヒポクラテスの格言に同意して、「病気」の概念はない、病気の概念はいわば患者が「プロの患者(患者のレッテルを維持するための患者)」となるために使われるようになってしまっている、本来は病気の概念や専門用語(依存やらトラウマやら)は、医師(専門職)同士がケーススタディでの共通認識として使い話を早めるためだけのものだ、というような記事を書いたこともある。

ただし、それと同時に、これも以前の記事のどこかで書いたような気がするが、私も医学的知識は極力幅広いものが心理療法家には不可欠と感じているし、クライアントさんを見立てもする。
医師ではないので診断を下すことはできないが、それでも、セラピーの方向性のためや、やってはいけない対応を見極めるため、クライアントさんの課題を分離分析するためにも、クライアントさんの症状や疾患を特定したりはする。

これは実は矛盾しない。

精神科医(診断を下す立場)であり天才心理療法家ミルトン・エリクソンが非常にわかりやすい言い方をしているが、クライアントのケースは100人いれば100通りある。セラピーをクライアントに合わせる必要がある。「病気の概念」に囚われ病気の概念に当て嵌めてしまうと、セラピーはおかしくなる。
あくまで、「病気」「病名」は概念でしかない。
その症状やその疾患状態は、あくまでクライアントさんの心・身体・生きてきたバックボーンなどによって、「その人の人生の中で」作られたものだ。決して同じものもなければ、治療法・セラピーの方法はひとりひとり異なるものとなる。

DSMという概念の教科書(これは決して悪い意味では言っていない)と照らし合わせて基準と当て嵌まる当て嵌まらないで診断をつけ、データを集め、今の日本の「病院」の多くの現状であるがほとんど患者さんのバックボーンや日常の心的な状況も聞かずに”治療”を行ってしまう……私の良く聞くところによると治療という治療もされないという場合も多いようだが…

こういうための「診断」は、クライアントさんにとっては不利益であり、意味がない。病気を作り出すという言い方をしてもいい。
実際、クライアントさんは無意識で医師に見捨てられないために医師の質問に対していつの間にかだんだんと「医師が予想する答え」を探り出して答えるようになり、自分で自分をその診断の症状に当て嵌めてその症状になっていく。
そして、それは「その状態で在ること」が自己暗示になり、顕在意識…表面では病気を治したいと言っているのにも拘わらずその診断が自分についていることが一種のアイデンティティとなり、「治らない」ラケットパターンを繰り返すことに陥る患者、つまり「プロの患者」になってしまっていく場合も多い。

以前の記事にも書いているが、私は、恐らくこの方の疾患はこうだろうな、という疾患名をクライアントさんに伝えない場合も多い。
伝えても意味がない、または上記のような展開に陥ることが見越されるケースが多いからだ。
それに、別に医学的な知見を交わすわけでもないのだから、クライアントさんに伝えたところでクライアントさんが自分の肩書にする以外なんの意味もない。
ただし、以前記事に書いているが、「病気の枠に一度嵌められてその自覚を持った方がそこから抜け出す動機の強化となり治療を受け容れやすくなる」クライアントさんもいる。
そういう場合には、私は見立てを伝えることがある。
しかし、この見立ては、あくまでDSMで診断する医師に同じことが言えるものではないものもある。
なぜなら、私はその段階のクライアントさんの「セラピー効果・人生の解決効果」となるために、今のクライアントさんにとって必要な情報を今のクライアントさんに受け止められるわかりやすい言葉や方法で伝えるから。
それでいながら、セラピー方針は結局同じ疾患名でもクライアントさんひとりひとりによって異なる。
(同時に、セラピストとしてはその方針の中に組みこむと効果が高いと考えられるデータや、この疾患の場合やってはいけないことなどを確認するためにも見立ては役に立つし、幅広い医学的知識や知見自体はどの道必須のものである)
つまり、あくまで治療、回復、問題解決、克服、それらのためのセラピー効果となるなら、診断(見立て)は、一概に邪魔なものではない。
世の中のどんなものにも当てはまるが、何にしても概念というものは、絶対的にそこにあるから合わせるものでなく、目的に応じて使い分けるものである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?