なぜか毎日がいっぱいいっぱいで過ぎ去ってしまう人へ

「なぜか日々があっぷあっぷして、いっぱいいっぱいのまま過ぎ去っていってしまう…」という人もいれば、
「なぜかも何もない!いっぱいいっぱいだ!」
「日々生き抜くのに/日々仕事ややることに追われて過ぎ去る、当たり前にいっぱいいっぱいだ!」
というような、自覚的な人もいると思いますが。

私は、少し前の記事において、
「現代社会においては、既にがんばりすぎの世の中」なのだ、
「自分自身(いわば顕在意識とでもいおうか)と自分自身(いわば、他人からいつの間にか取り入れたものでなく自分自身の本来の体感・本音とでもいおうか)とが重なりたいのだが、その間に不純物や余分なものがあまりにもうぎっしりとつまってしまっているのだ(心理学的に言えば認知の歪みとも言う)」
というようなことを書いた。

そして、その記事内でも書いたが、私はあくまでも、「現代社会」を批判しているわけではない。
それに、「日々いっぱいいっぱいで働いていること」は寧ろ自分を生かすために「今ここで必要で」行っていることであるため素晴らしいことである、だからこそ、そういう意味での「がんばっている」ことは一切否定していないし、実は寧ろそこに寄り添うために書いた記事でもあった。

しかしながら、実際にそういう人たち、つまりは、既にまさに本当に頑張り過ぎている人たちには、
(…いや、ある意味逆説的なことを書けば、本当に「生きるための仕事に忙殺されている」がゆえに時間が飛ぶように過ぎている人は、あの記事も今ここの文章も、読んでいる暇もないと思うわけだが、それも全て含めて)、
恐らく、私の記事に対してわけのわからないような思いが出てくるような場合もあるかもしれない。

例えば、
「既にがんばりすぎ?がんばらなければ生きていけないのだから仕方がないだろう、がんばってはいけないのか、がんばりすぎても生活できないのにではどうしろというのか」
であるとか、
「がんばりすぎの世の中?現代日本社会に問題があるというのか、ならばこの時代この国に生まれた自分は救われようがないとでもいうのか、どうしろというんだ」
であるとか、
「自分自身と自分自身の間に不要なものがぎっしり詰まっている?だから自分自身に気付けなくなっている?自分はやらなければならない仕事や日常をこなしているだけだし、がんばってもがんばっても生活は変わらないし時間はどんどん過ぎていつの間にか日が過ぎていく。だからそんな中で自分に気付く暇などないのは当たり前だろう。自分と向き合うのは余程暇を持て余して余裕があるのだろう。」
で、あるとか。

他にももっとたくさんあるかもしれない。

しかし、実は私のあの記事(この記事も、他の記事も多くがそうなのだが)は、寧ろ、私の記事で上記のようなことや類似したような感覚を受けてしまう人達、まさにそういう人たちに向けて、そのあなた方に寄り添うために書いている。
あなた方のその言い分が寧ろ痛いほどわかるからこそ、書いているという面がある。

なぜなら、そのような反応自体が、あなたの(しかも究極の)SOS反応であるから。
そのような部分自体が、いわば”この記事で私の言う”「がんばりすぎ(社会への適応)」が出しているものであるから、
そして”がんばりすぎ(社会)”によりいつの間にかあなたが他者に言いように使われるため思い込まされ植えつけられた「認知の歪み」から発される反応であるから。

…私が「現代日本社会が…」などと言うよりもとっくに前に、あなた自身が、「余程の鎧(適応)を身につけなければこの現代日本では生きていけないのだ」と思ってしまった結果、出てきている、その「鎧」の反応であるということを痛いほど感じるからなのだ。

しかしながら、多くの人は、「鎧」をいつの間にかどんどん着重ねるかのように過剰武装したり、少々目的と当たらずとも遠からずの効力や機能のある鎧を、寧ろ外側に対してだけでなく自分自身の首も絞めて苦しむようにする着方をしてしまっている。
…そして、「それ(苦しい)は当たり前だ」と、もはや鎧を着るために苦しさを麻痺させ、自分が鎧の中で汗だくでも我慢していても、それを我慢や苦しさだとは感じなくなっている。

その鎧、いや、どのような鎧もだ。
着ていても、自分が苦しくなく着ることができる方法がある。
いや、それどころか、私は現代社会を批判もしていないと書いたが、現代社会においても、鎧を着ずとも、ましてや重ね着などせずとも、無敵に渡っていくことのできる方法すら、ある。
いや、「鎧」という適応と違う、もっと効果的かつ更にぴったりと適応する方法、とでもいうのか。

…いやいや、そもそも自分が鎧を着ているかなどは知らないが、どうせ苦しさや痛みや汗だくの我慢も、麻痺して感じなくなっているのならそれでいいだろう、それで自分を守れるのなら、どうせそれでなければ自分は生きれないのだ。
…などと思う人も、いるかもしれない。

完全に麻痺してしまっていれば確かに自分の鎧や重ね着やズレた着方、それもあなたが寧ろ立派に人生の戦場を戦い抜いてきた誉の証、勲章であるのだから、そしてそれらにおける自分の痛みも感じずには済むかもしれない。
しかしながら、生きるため、自分を守るためとはいえど、あまりに鎧を重ね着したまま…しかもその下には実は既に古くなって防御効果もなく重いだけの鎧も着たままかもしれない…では、あなたはもし痛みには慣れても、その重さに自滅することになる。
その重さはあなたを、あなたの思わぬほどの勢いであなたの力を削ぐ、そして、あなたのいるその戦場で、必要な場面で必要なものを見つけたり手を伸ばしたり振り向いたりすることを、あまりの重さに遅らせたり妨げたりすることになる。
しかも、今のあなたのその重ね着、そしてそのあまりに戦場で駆け抜けてきたがゆえの鎧の着方のズレは、あなた自身は痛みには慣れたかもしれないが、鎧というのは外側に向けても防御のために固くとがっているが、内側に向けてもとがっているものだ。痛みにだけ気付かなくなったあなたの首に、鎧の内側が鋭く刺さり、戦場でいっぱいいっぱいになっているあなたのそのさなかに、あなたの首を掻っ切ってしまうかもしれないのだ。


心理学用語で言われる「認知の歪み」「ビリーフ(信条)」というものは、
あなた自身がその渦中にいると、あなたはそれがあまりに当たり前になってしまっているので、気付かない。
しかも、それがもしあなたの首を今も絞め続けていたとしても、あなたとしては、既に痛みが麻痺している(生き抜くために自分で麻痺させてきている)から、真綿で首を絞められているようにしか、もしくはそれすら感じないかもしれない。
しかしどんなに少なくとも今、あなたが、
「何やら自分はどうせ苦しむ、大変な星のもとに生まれたのだ、どうせ身も心も酷使して動き続けねば生きられないようになっているのだ」
だとか
「何かもやもやするが生きづらい、息苦しい、幸せに生きている人たちと自分の違いはなんだ、幸せに生きている人たちや成功している人たちが羨ましい、妬ましい」
…他、何か微妙に近いようなものでも感じていたり、どこか共感があれば、それはあなたの鎧の内側があなたの首に食い込んでいる痛みだ。
どんなに少なくともあなたの鎧のその首の部分、兜、それを付け替えるくらいの環境は今のあなたにもある。
そしてその環境も提供することができる。
そういう人ほど、「なんだかよくわからない」状態にいるので専門機関を使って良いのかわからず、話すべきことではないだろう、などとついいつの間にか自分ルールを作ってしまい、声が届かない。
何かモヤモヤする、だけでもう充分だ。その上で更にこの記事をここまで読んでおられるだけで、充分、あなたのそのサインだ。
お声を掛けて下さい。
あなたのその兜、あなたを傷つけず、それでいてあなたを今まで以上に守ることのできる防御力を発揮できるよう、着け直しましょう。

あなたは、あなたの人生を生き抜くために、自分を守るために、鎧をつけてきたのだ。
ならば、それがズレてきて内側のでっぱりや角があなたを傷つけ始めたとき(それは同時に外側に対する防御力も低下する)、あなたをちゃんと守ることができるように付け替えることくらい、しても良いのですよ。
寧ろ、それくらいのメンテナンスは行わなければ、本末転倒なのだ。


心理療法やカウンセリング(一応、カウンセリングも心理療法の一部なのだが)は、日本ではなぜだかハードルが高い。利用していい基準がわからない。
しかし、ひとつ言えるのは、「こんなことで利用すべきではない、利用していいのだろうか」などと思う事自体が、利用した方が良いサインであったりするので、そういう人ほど一度は相談してみられると良いだろう。
私も、そんな人たちになるべく敷居を下げるため、初回のカウンセリングは特別価格枠で行っている。
記事をここまで、ご本人の自覚としては何となくであっても、お読み下さったということ自体も、何か反応するものがあったということ。そして、それに「?」と思ったとしても、寧ろそれこそが、あなた自身が鎧の内側で内側のその反応する感覚をうまく受け取れないほど麻痺しているということかもしれないのだ。
どんなに少なくとも、自分の人生に関係なく、必要もないと体感が・あなたの人生が感じれば、こんな記事、最初の1,2文で興味もなく読むことをやめて他のことをしているはずである。
……だからといってあなたが「そんなことを言うならもう読まない」となられたらそれはそれで寂しいが(笑)、ただ、何らかで気になるから読んで下さったということは、そのご縁、あなたの体感(感覚)は確かであるのだ、ということをお伝えしたい。

ちなみに、アメリカなどでは、心理療法(催眠療法・カウンセリングなど含む)を、ダイエットや禁煙、生活上の目標実現(自己実現)などで非常に日常に近く、組み込まれ、気軽に利用されているようである。
…いや、だからと言って体型のお悩みや禁煙したいという問題、自己実現などが軽いとか小さいとか言っているわけでは決してない。いや、寧ろ決して軽いとか小さいわけではないからこそ、軽いとか小さい問題なわけではないのに、日本人は「そんなことで…」と言って寧ろ「自分の問題」を軽視し、専門機関に行かず、ご自身たちでセラピー(セラピーというのは癒し、療法という意味である)のハードルを上げているということなのだ。
だから、それでも何かもやもやするなら、がんばっていっぱいいっぱいで立派に日々を生きておられるあなたなら確実に1個2個目標をお持ちであろうから、一度「自己実現」で相談されてみては如何だろうか。
万が一「そんなことで来たのか」と言われるのでは…などと過るのなら、私の初回カウンセリングに来られると良いかもしれない(どんなに少なくとも催眠療法に行かれれば暗示療法の範疇となるので、自己実現でそんなことを言われることはないはずだが)。ご心配であれば私のところも大歓迎である。
しかも…もうひとつ付け加えるなら、日本人は問題が重くなってから専門機関を訪れるが、ここまで重くなってからでは、あなたの背景、つまり問題を解決するために必要な情報ですら、もはや入ってこない(あなたから出てこない)。それは、誤診やセラピーの効率の悪さ・方向違いに非常に直結しやすい要素でもある。つまり、アメリカのように日常生活にも気軽に利用されるくらいに組み込まれていないと、ぽっと出ぱっと見では、大きな問題も正しく伝わらず、逆にあなた自身の首が更に絞められてしまうようなことが起こりかねないのである。
(実際私のクライアントさんの中にも、問題が大きいのだがそれがゆえに専門家…カウンセラーであろうが大病院のドクターであろうが、うまく伝わっておらず、誤診や誤治療を受けてわけのわからない状態になって来られた方が複数名いらっしゃる)

いわば、未病とわかるに越したことはない(東洋医学では未病は既にメンテナンスは必要な状態という見方もあるが)。
といいながら、私も身体の定期検査などには絶対に行かないクチである。いや、寧ろだからこそ理由がわかりやすいのではと思うのだが。
心と身体は繋がっているが、定期診療などの場合、身体のあらゆる検査だけでストレスが加わる。だからこそそれで金銭と時間を費やして病気ではないとわかることにはあまりメリットはない、寧ろ損をしたくらいにも感じるかもしれない。
しかしながら、心理のたまのメンテナンスの場合は、未病とわかれば未病とわかるだけでなく、今の人生を更に更に晴れやかに自己実現の心地良い方向へと進めることができる、その日も、寧ろ心が更に軽くなって帰ることができるのである。なにせ、人生を生きていれば、必ずその時にぶち当たっている問題(壁)というものがあるものであるから。それにたった1回でも一緒に寄り添ってもらい解決を早めたりもっと良い方法を見つけたりすることもできる、あなたの今後の可能性の道をいくつか明かりを灯して帰ることができるわけなので、言い方は変だが、時間にしても金銭にしても無駄にはならず、「元は取れる」わけである。

そして、もしも、先程書いた、「人生を生きていれば、必ずその時にぶち当たっている問題(壁)というものがあるものである」
これも感じることができていない場合であれば、それこそ既に鎧の内側の痛みに自分の人生の目の前が見えにくくなっている、既にメンテナンスがしっかりと必要とされているサインともいえるかもしれない。

ましてや、「行ってもし未病でなかったら…既にカウンセリングやセラピーが必要な状態であったらどうしよう…」ともしも過ってしまう方は、(身体の定期健診と違い)それこそそれだけの不安を過らせるほどの問題があなたの中に膨らんでいるということであるので、それこそまずは一度、あなた自身がそんなことも思わないくらいご自身の人生とご自身の健康に自信が持てるようにするために、少しだけ立ち止まって、ちょっと気分転換・リラックスでもする時間くらいの感覚で、特に催眠療法であったりすればそれだけでもリラックスや気分転換効果があるので、ちらりと人(セラピスト)に話してみる機会をもってみては如何だろうか。

これも身体の診療と違って(いや身体の診療も強制はないはずだが)、心理療法やカウンセリングは、例えば一度で胃癌のレベル4の緊急入院が必要なほどの重病が見つかるだとか言う事はまずない(自分で受診できる程度の状態ならば、だが)。
つまり、無理やり通い続けろと言われることはない。
…しかも、そもそも精神科はともかく、カウンセリングや心理療法であれば、「あなたは〇〇障害です」などと診断することすらないので、「言ってみてもし大変な病気が見つかったら…」というような身体の定期検診のような不安が過る必要は、そもそもないので、安心して頂いて良いように思う。

……実はそんなことを言っている私自身が、元々は心理療法やカウンセリングのメンテナンスに反対意見を持ち、嫌悪していた。
そして、だからこそ、私はその嫌悪される(自分が嫌悪していた)理由でクライアントさんに不安を感じさせない心理療法を開発し、目指している。
そして、だからこそ、これはともすれば心理療法やカウンセリングの検診の勧めのようにも見えかねないかもしれないが、決して宣伝広告ではない。

ただもし、この記事をお読みになって、何か心が動いているようなら、それだけあなたの人生、あなた自身の心が、体感が、大変さ、苦しさ、もしくは何かを訴えておられるのであろうと感じるからこそ、そんな方にはぜひ、一度お声を聴かせていただきたい、と、思う。
たった一歩、立ち止まってそんな方向を体験してみること、決して無駄ではないし、そんなことをしてみても別の景色が見えるものだ。
良し、ではまた進もう、とした時に、同じ道であったとしても、また新しく違う見え方をしてくるものだ。一瞬でもリラックスや気分転換の時間や道を自分に与えてみることは、どんなに少なくとも、あなたの人生に彩が増えることはあっても、減ることはない。



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