心身が繋がっている/心身に対する扱い方は一致する/潜在認識ひとつで全てが変わる、とはどういうことか

〇心と身体は繋がっている
 心と身体は常に繋がっている。しかも、常にイコールの関係である。例えば、身体に問題を感じる時、心に何らかの問題がある。心に何か問題を感じる時(それは顕在意識では過去であったり人間関係であったり環境が問題だと感じているものも全て含め)、実は身体に、同じだけ問題(歪み)がある証拠である。
時に、自分は心の問題はあるけれど身体は何ともない、または逆に、身体は不調だけれど心には問題はないよ、という人がいるが、これは、実は「気付いていない(気付かないようにフタをしているほどに歪みや歪みの癖・パターンが生じている)だけで、どちらかだけが不調(歪んでいる)ということはあり得ない。
更には、心の不調を癒したいが心の不調がよくわからない、うまく自覚できない、まだ向き合うには早いほどに根深く大きい、というような場合(など)は、身体的アプローチによって身体の不調(根底の歪み)を癒して整えていくことで、心の問題も不思議なことにイコールの関係で底上げされていき、気付いたら向き合える状態になっていたり、それどころかいつの間にか心の問題も解消していたりする。逆に、身体の不調を癒したいが、医者に「これは心理的なものだと言われた」「原因や治療法がわからない」だとか、身体に不調はあるのだけれども言語化できない…だとかいう場合、心理的アプローチによって自分自身を知る過程を体験してみたり心の問題を癒すということをしていくことによって、身体症状をはっきりと言語化できるようになったり、それどころかいつの間にか身体の症状も解消していくような場合もある。

〇心と身体に対する扱い方は一致する
例えばあなたが日常や外側の他者や世界に対して持っている考え方や扱い方、習慣、癖、パターンなどは、実はあなた自身の自分の心に対するそれと同じである。
これに関してはなかなか簡単にこういうこと、と説明しにくいものがあるのでクライアントさん方などは私との付き合いの中でだんだん「ああ、本当だ」「おお、そういうことか!」「え~…これもそういうことだったんだ」などと実感を伴って知っているものであるが、少し無理やりわかりやすい例を出してみると、例えば世界を非常に一面的な物の見方しかしない(一つの角度から知ったつもりになる)人は、自分自身(の心)に対しても同じであったりするようなことである。これは、表面的な例えで文字にして説明をすると、文字面ではどう関連があるのかわかりづらかったりする場合もあるから、本当に具体例で気付いていくしかない。が、心と身体が繋がっていてどちらからアプローチしてもどちらも両方動き(変化)を見せる、というのと同じで、毎度自分の中のこの法則(具体例)に気付くクライアントさん達は、やはり楽になることを感じておられるようである。また、認知行動療法もうまく進みやすくなる。

〇潜在認識ひとつで全てが変わる
これも心と身体が繋がっているという理屈と兄弟理論であるが、例えば、内臓ひとつとっても、骨ひとつとっても、これひとつの認識の勘違いで、自分の身体のパフォーマンスが断然変わる。例えば肺ひとつ。
肺の構造機能姿かたちなんて知っているよ、現代じゃもはや一般常識の領域じゃないか、と思う人たちも多いことだろう。しかし実は、これが落とし穴であったりもする。
というのも、例えば小学校や中学校の理科の授業で、肺の写真や図などを見て、正しい「知識」はあるつもりでいたりする。
しかしながら、現代社会というのは、どこにいても歩いていても立ち止まっていても情報(暗示)の渦中である。街中を歩いているだけで、例えばであるが、渋谷のスクランブル交差点に建っている建物の外側についている画面で、イラストの実際とまるで違う可愛く小さな肺に、なんと全身とげとげして槍を持って吊り目のウイルスが入っていくだとか、そんな広告が流れていたりする時代である。そして、通行人はそれをいちいち意識などしない。そんな広告が流れているということにすら気付かずに(脳は五感の情報を今必要なものだけ取捨選択して”意識”に伝えるので)、それでも目や耳はしっかりとそれを受け取って、潜在意識の記憶や認識に影響を与え、蓄積していくのである。渋谷のスクランブル交差点ほど情報の渦でなくとも同じである。今やテレビや本、マンガ、本当に何の気ない電車通勤時だとか、そんな時ですら、見るともなし聴くともなしに、イラスト・二次元の世界が舞い込んで来る。(そして”そのような意味での”二次元の世界というのは、日本近代化以前にはほとんど存在しなかったものである)
そして、現代の日本社会というのは(これは日本だけではないが)、あまりに情報過多で、ただでさえ顕在意識は、情報の取捨選択自体、下手になってきている(追いつかなくなっている)。
そんな中でも、溢れそうになりながら”意識的にわざわざ”しかも”テストのために”入れた授業の内容での肺の図や写真などよりも、サブリミナル的に一瞬、一瞬を繰り返しながらあらゆるところでどんどん接する情報たちの方が、実は断然刷り込まれやすいのである。
そして、そんな中で、例えば顕在意識としては肺の写真や図を知っているつもりでいたとしても(知らなかったら尚更のことだ)、いつの間にかあちこちから刷り込まれているイラストの肺が「潜在認識」として定着していたとしたら―そして専門家以外、こういう人の方が圧倒的に多いのだが―、そうしたら、自分の肺のパフォーマンスは、実はそれだけで一気に落ちているのである。例えば”自分の身体の中の肺”を感じる(この言い方と感覚は少し難しく膨らむのでこの記事では割愛するが)ことなく、イラストの肺が潜在認識に定着していると、本当はあなたの肺自体は健全で10割パフォーマンスを発揮できる(例えばいっぱいに息を吸える)肺であったとしても、実は全体の2割くらいしか吸えていないでそれを当たり前のように日常を送ってしまっていたり、吐く力が弱く、そのために次の息もどんどん吸えなくなっていたり…そして慣れ過ぎていたら、それに気付きすらしなくなっている。そんなケースも非常に多い。根本(ベース)がそれでは、それは身体の不調に気付けなくもなる。
ちなみに、これは自分の身体に対する認識だけではなく、外側に対する潜在認識もそうである。外側の世界に対して何やらおかしなステレオタイプの潜在認識を持っていると、それを自分自身にも適用したり自分自身の人生の可能性の道を閉ざしていたりするので、やはりこの潜在認識ひとつの在り方で、あなたの身体も心も人生もがらりと一変する。


…というような、上記3つのような理論を私は良くクライアントさんに説明をすることがある。

そして、まあ一面からの例ではあるのだが、なかなかわかりやすい事例が最近あったので、これを具体例として、これらの理論を少し説明してみようと思う。


あるクライアントさんが、私とのセッション中、「息苦しさ」を訴えた。
(ちなみに、オンラインではあったが、別に何か発作が起こったとか環境が過酷であるとかいう急激な変化あったわけではないことはわかっていた。)
しかも、そのクライアント、そういうことは良くある、近しい人にも、「息が浅くなっている」という指摘を受けることも良くあるという。

何の気ない調子で私は、「そういう時、息を”吸おう”としていないか?」と聞いた。

すると、このクライアントは、
「え?!してる!」と、そんな質問に驚いたかのような勢いで返答してきた。
つまり、”息苦しくなっている=息が吸えていないと感じているのだから吸おう吸おうとがんばるのは当たり前ではないか”というわけである。

そして、ちなみに私は、ヒトの肺のメカニズムを知らない人でこういうことがある人はもとより、肺のメカニズムを習っており自覚の上でも知ってもいるはずの人でも、このようなことが起こる、つまり、つい吸おうという心身反応を起こしてどんどん息が苦しい悪循環に嵌ってしまう人のケースも見ている。

ここの記事を読まれるような方の多くはまあご存知の方も多いかはわからないが、まあまず、こういう場合は一番最初には、「息を吐くことに意識を向ける」よう促す。
そもそも”息苦しい(息が吸えないと感じてしまう)”=息を吸おうと思うのは当たり前、というくらいの認識状態の人には、まずこれだけ(息を吐くことに意識を向けさせる)で、多くの場合、楽になる。

ただ、この対処法だけ1回知っても、度々同じようなことが起こる、とか、知っているのに毎度吸おう吸おうとしてしまう、などのような場合は、私がこの記事で題材としようとしている、私の3つの理論がそのクライアントの中に動いている(という見方ができる)。

非常にわかりやすい具体例であったので、文字としてもなるべくわかりやすく記してみたい。

まず、クライアントは”息苦しさ”を訴えた。
”息苦しい”とは、まず、同時に、”生き苦しい”ということである。
つい発作に近いような身体反応に気を取られがちになるかもしれない。
が、そのクライアントの”身体”は(身体というのは潜在意識であるということも私は良く説明するのであるが、身体・潜在意識というのは実は大変素直なのである)、「生き苦しい」ということを、訴えてきているのだ。
クライアントの顕在意識の方が口に出さなかったり、そもそもこの自覚自体がどちらかと言うと薄かったりする人であったら、尚更だ。
まさに潜在意識・身体からのはっきりとしたメッセージであると受け取ることができる。

そして、(一応付け加えておくと、生まれて数十年以上、息をし続けてここまで生きて来ている人が)、息苦しさを感じて、息が吸えていないと感じるがゆえに(自分の状態を感じる前に)どんどんどんどん外側から補給をしようとする、ひたすら外側から息を自分の中に入れようとする、外側の物質で対処しようとする、という現象が起こるというのは、どういうことか。
これは、ひとつの角度から見ると、エリクソン的な言葉遊びのようにも見える方もいるかもしれないが、「外側に依存して成り立たせようと」「外側(他者)に自分の人生を投げだそうと」「外側のもの(例えば他人の考え方や他人からの自分を見る意見や他者の人生)から得よう奪おうとして」いる、ということを身体が表して教えてくれている、現われでもあるという見方もできる。
つまり、自分の身体に対する扱い方の習慣と、外側に対する扱い方の習慣が一致しているわけだ。

ちなみに、これは良くいわれることであるが(そして細かいことは省いてなるべくわかりやすく書くが)、
呼吸というのは
吸う=緊張(収縮)
吐く=弛緩
である。

つまり、吸うことに躍起になればなるほど身体中の筋肉は緊張する。
そしてその緊張(収縮)を維持していれば、外側から内側に全てが縮こまり、肋骨も押さえつけられ固まり、そうしたら肺に息は…

「…入らないね」と、クライアントは言った。
肺は、空気が入って内側から膨らむ必要があるのだ。外側から押さえつけ押さえつけていたら、入るはずはない。

そして同時に、息をする度にひたすら吸おう吸おうとしていたら、肺から空気を追い出さない前に、つまりその時点では肺に既に空気が入っている状態なのである。
頭(脳、顕在意識)では、息が吸えていない(実は、かと言って肺に空気が入っていないとも言っていないし吐くことができないとも言っていないわけなのだが)と思っていようと、肺には既に空気は入っている状態である。ついでに極端なことも言えばそもそも、人間は「息をしていない」わけはない、だから息ができていない状態でもない、そして息をしていなかったら今ここで「生きていない」わけだから、肺に空気が入っていないわけがそもそもないわけなのだ。

では、その状態で更に息を吸おうとして、空気が入っていくか?
これは、ポンプの原理である。
スポイトのようなポンプがあったとする。ポンプはぎゅっと外から圧力をかけて中の全ての空気を抜くことにより、手を離した時にポンプの中に空気(水の中で手を離せば水なり)が入っていくのである。膨らんだ状態からどんなにがんばったって、入るわけがない。

そして、実はここでも、自分の身体の扱い方と心の扱い方の一致が見られる。
心でいつも何か「足りない」「不満」「不快(※)」などを感じている人は、自分の中から本当は湧き出てくるもので満たしたいはずなのに、自分の中が「見えない(自分の中の本当の自分を見えない状態にしてしまっている)」から、外側(他人軸)からひたすら何かを入れて満たそうとしてしまう。しかし、満たせるわけがない…どころか、空気と同じで、本当は「入ってくる」わけがないのだ。自分のものではないのだから。入ってくるわけがないし受け入れることができるわけもない(いくら他人軸を受け入れて従っているフリはしたところで)。

ちなみに先程「不快」という言葉に※をつけておいたが、「不快」がどうして「足りない」ということなのか、と疑問を持たれた場合に付け加えたい。
確かに「不快」という文字自体は、何かが足りないことを表す文字ではない。まあ、「不満」と同じで、「快」が足りないという見方もできるわけなのだが。
もう一つ付け加えると、私は(他の記事でご覧の方もおられるかもしれないが)、「意識領域」は目の見えない人と同じ、そして目に見えない人生の登山道は、目の見えない自分の前にテーブルがあってその上にたくさんのものが乗っている状態(そしてその上に乗っているものは目まぐるしく次々変わっていく)と同じである、と例えることが多い。そして、「不快」を感じる時と言うのは、実はテーブルの上に手を伸ばして「不快な物」に当たったのではなく、「自分にとってまだ情報量が足りなくて探り足りない、これしか、つまり例えば手指を伸ばしたら何やらちょっと硬いもの(柔らかいものでもいい)にカツン、と当たった。当たったこと自体にびっくりして、障害物だ!と感じて手をつい引っ込めてしまった。つまり、それしかわかっていない」から「不快」に感じるのだ。実はその手指が当たった硬いものは、実は自分の大好きな美しい装飾のついたコップかもしれない、柔らかかったならもしかしたら気持ちの悪いものではなくて、かわいいかわいいぬいぐるみかもしれない。
…ちなみに視覚が利かないとぬいぐるみを理解しにくい。例えこれはクマのぬいぐるみで、ここが鼻、ここが口、などと触らせてもらって教えられても、自分自身でそれを理解できないし全体像のイメージはできないので、それが本当にその人が言っている通りクマなのかは、わからないのである。そして、思わぬ時にそれが手に触れると、その柔らかさや毛ゆえに、一瞬気持ちの悪いものや嫌な生物かと思ってしまいがちである。コップの硬いもぬいぐるみの柔らかいも、快と感じることも不快と感じることも、自分の解釈(自分ルール・概念があるかどうか)次第なのである。
話を戻すが、そのため、「不快」というのは、情報量(しかも自分の本当に欲しい情報)が足りない、という意味なのである。…更に言えば、潜在意識はテーブルの上のもの、実は全てわかっているので、だからこそ顕在意識がそれを勝手な自分ルールで「障害物」と判断してしまっている、本人自身が欲しがっている情報をわざわざ閉ざしたままにするもどかしさ、これが「不快」なのだ。と、ここでは説明する(無論いろいろな角度から不快ひとつも説明できるのだが)。ちなみにこれは先日載せた、この記事においても詳しく書いている例えであるので、ご覧頂きたい。


さて。話を戻す。
そうして心と身体の扱い方の一致で、息苦しい=生き苦しい、が起こる。
すると、筋肉が肺まわりをきっかけに芋づる式に全身緊張(収縮)してくる。すると内臓も全て収縮してどんどん機能が落ちる。
これだけでも大変なことだが、すると更に、筋肉と内臓が縮こまって内へ内へと引っ張るので骨格もそれに引きずられてどんどん歪みを生じていく。
すると、身体全体の呼吸を、自分でとめてしまうことになる。
身体全体の呼吸とは何か、ということも少しだけ補足しておこう。
自然界では蕾が開き花が咲き、種が落ちてしっかりと閉じて殻にこもる期間があってそれから種が開き芽が出てくるように、自然界には大きな「呼吸」がある。閉じて、開き、「呼吸=開閉運動」ともいえる。
そして、ひとの身体の中でも、自然な緊張と収縮を繰り返しているのは、実は肺(肋骨)だけではない。他に頭蓋骨、骨盤も、一定サイクルで「呼吸」している。また、もちろん、いわずもがな、心臓も一定サイクルで開いたり閉じたりしている。(この話はこの記事では割愛する。)
つまり、肺のみならず、いのちを繋ぐための身体中の呼吸を自分で止めてしまうのである。呼吸と心臓はそれこそ繋がっている、呼吸をしなくなれば、心臓も動きようがなくなっていく(そこまで止めるのは至難の業ではあるが)。
そして、そうなると、頭蓋骨が圧迫され、脳が委縮し、(いや、実は身体が委縮している時点でそうなのだが)、精神的な症状もどんどん現れてくる。認知の歪みによる妄想じみた考えや、不安や恐怖や怒りなどなど。

全ては繋がっているのである。
そして、これらが全て一連の連鎖反応であるので、今回は「呼吸」から例に挙げたが、具体例を挙げれば他、ほとんどどんな症状でも同じことがいえる。そして心の症状であれ身体の症状であれ。
心の症状はそれこそ顕在意識は、やれ過去の出来事が原因に違いないとか、外側の環境だ、職場のあの人だ、などなどと、それこそ「ストーリー」を作って自分ルールで納得しようとするのだが(顕在意識はその場その場で自分が納得していたいという特徴もある)、心が先であれ、身体が先であれ、心で問題を抱えた時は、その心の問題をいわば「保持(その状態である)」するために、必ず、身体もその状態とイコールになるように”歪ませる”ということが起こる。そうすると、先程の例でも肺周りの筋肉が萎縮収縮するだけで身体全体に及びそれが内臓、骨格すべてにどんどん連鎖を起こしていくように、身体の歪みと共に心の歪み(問題)もどちらも不利なサイクルに陥っていくのである。
そして、念のためひとつ言っておきたいのが、私は、整体師などではない。これは、心理的アプローチがそもそも専門の心理療法家が言っていることなのである、ということ。
それこそ身体の専門家は、もしかしたらこれをもっと理路整然と綺麗に説明してしまうかもしれない。

そして、全ては繋がっている連鎖反応なので、どこかで問題が起きている時は、その連鎖反応の中の全ての個所でそれが起こっている。
逆に言えば、その連鎖反応のどこかでそれを食い止め鎖を分断すれば、その連鎖反応はだんだんと収まる方向にも行くことができるのである。

これが、私のホリスティックアプローチの一面でもある。
そして今回、説明しやすい、わかりやすい具体例と出会ったので、私の良く説明している、
・心身は繋がっている、しかもイコールで
・外側に対する扱い方・傾向と自分自身(心・身体)に対する扱い方・傾向は必ず一致している
・潜在認識ひとつで、全てが変わる(ちなみにこの記事では割愛したが、知らず知らずの間に刷り込んできてしまっている潜在認識…つまり自分自身に対する色眼鏡を、しっかりと自分の体感を自分で見ることができるように再認識付けていくことも心身アプローチのセラピーで可能である)

ということはどういうことなのか、説明する記事とした。

これらは具体例として自分を見ていくのが本当にわかりやすい(というよりも、ヒトは物事の真髄を必ず自分の内側からこそ知る)。
私のクライアントさんたちは、セッションの度にこれらの具体例が次々と出てきて、気付き(癒し)が起こっては楽になっていかれる。

ご興味のある方は、ぜひお声がけ下さい。
個別セッション(カウンセリング・セラピー)でも、セミナーでも、私の主宰するコミュニティにおいても、お応えしております。
それぞれの方に一番沿った方法を探るためにも、事前個別相談枠で承りますので(もしはっきりとクライアントとしてのカウンセリング・セラピーをご希望でしたら初回特別価格カウンセリングもあります)、ぜひ、お気軽にお問い合わせフォームよりお声がけ下さい。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?