私と催眠との馴れ初め

私は現在、いつの間にか催眠療法士として名乗るようになり、催眠をベースにあらゆる心理療法を繋げてカウンセリングやセラピーを行いながら、ふと気付けば催眠療法資格の発行資格も取得し、来年からは催眠療法を教え普及する活動もしようとしている。

ふと気付けば、全てがいつの間にかである。

それでいて、私の顕在意識では実は、自分がセラピストとして名乗るようになるなどと思ってもいなかったし、セラピストになりたいかと言われればなりたいなどと思ったこともないし…実は、今この瞬間ですら思っていない。

では、なぜ催眠療法や心理療法の研究などする今に至っているのか。
そんな私が、どうして催眠と出会ったのか、久しぶりに、記事にしてみようと思う。

私の意識が今宇宙の中で担っているこの肉体、この「器」は、出生時低酸素症による重度脳性麻痺児として出生することとなった。

外界の刺激に一切の反応を見せず、首も坐らず、アテトーゼが強かったそうだ。生後8ヶ月辺りになっても、脳波が0の状態であったという。
(完全に脳波がゼロであったということなのか、前例がないと、大学病院の小児科医の先生も首を傾げるような不思議な状態があったようだ。ここに関しては数十年前の話で、どういうことであったのか、もう調べようもないのだが)

7名の医師に、口をそろえて「この子は100%寝たきりになる。もしできても、背這いしかできないだろう」と言われ、ともかく地域の心身障害者福祉センターのリハビリと、家においても音楽家であった母親が、子供番組の曲を片っ端から根こそぎエレクトーンで演奏し、音楽を浴びせ続けてくれたらしい。これは、後年から言えば、音楽療法の効果を果たしたと言わざるを得ない。
要するに、もちろんあらゆる要素が重なったのだろうが、奇跡の脳の可塑性と発育を見せたのだった。

ただ、全てにおいて他の子どもの発育より大幅に遅れていたようだ。
目が見えるようになった(目に受ける刺激に”反応するようになった”)のも、他の感覚器よりはるかに遅く、また、小学校に入る頃にも、立って歩くことも難しく、就学時検診を受けていれば通常学級に入ることはできなかっただろうと言われた(この辺りも別の記事で違う角度から書いているものがあるが)。

この頃の記憶は流石にほとんどないが、何やら重複したような記憶や見え方の違うような記憶もあるので、恐らくこの頃には既に解離をしていたのではないかと思う。
我々の中には、中学頃まで自分をその”戸籍の名前”の人格なのかもしれないと思い込んで来た(いわば基本人格代理のような)人格はいたが、これはそもそも戸籍のデータとも差異のある人格でもあり、結局未だに、そしてもはや共存でも統合でもなく我々自身が発見した第3の道としての寛解をした今ですらも、”戸籍の名前を持つ”人格は確認されていないし結局確認されなかった。
この辺りも、生後8ヶ月頃まで脳波がなかったようなところとも関連しているのではないかと考えている。

さて、そんなわけで通常学級に無理やり捻じ込む形で入学をした…教室の階を1階に変えさせたり、トイレを全て洋式に変えさせたり、地区の補助要員を2人もつけるなどして…わけだが、本人にとってはどうやら過酷だったようだ。
これらがあったおかげで我々は今こうして日常過ごすことができる身体を享受している、これは何にも代えることはできない、感謝である。と、同時に、当時の本人にとってはやはり過酷だったようだ。
どう過酷であったかというと別の既に挙げてきたような記事にまわしたいが(この記事の最後にでも、関連記事を載せておこうかと思う)、何にせよ我々はこの頃から、解離を駆使してとにかく「周りの子となるべく同じように、なるべく同じことを同じやり方でできているかのように見えるように」取り繕うことが人生の大きな軸となったのだろう。
視覚やコミュニケーションの問題によって人や周りとうまくいかないことは「対人恐怖のため」と見えるように置き換えてきたし、視覚状態自体も、本当に後で分かったことだが…解離を駆使した。羞明を解離し、「見えているかのように」振る舞い誤魔化す術に長けた。視覚で反応するものも視覚でない部分で補って、わかっている前に反応するようになってもいった。

と、同時に、幼い時から、昔は気配恐怖と言っていたが、気配に非常に敏感だった。後ろを誰かが歩いていたらこわくなって自分はどんどん速く歩くようになっていったし…しかし、明らかに気配を感じるのに、そこに「ひと」はいないことも良くあった。
とにかくあらゆるものの気配を感じていたようだ。
赤ん坊の頃にも、この子は何も見えていないはずなのに、抱っこしている両親の顔すら見ないくせに、あらぬ方…例えば何もない壁の方など見て、この世のものとは思えぬほど幸せそうに笑うのだ、と、両親が言っていた。天使を見ていたに違いないと言っていたこともあったが、近いものがあったのかもしれない。この頃から、宇宙規模の次元に於いてあらゆるものの「気配」を感じていたのかもわからない。

また、幼い頃から、ひとと「顕在意識上で」噛み合う話ができなかった。
子どもと話しても大人と話しても。
非常に言葉に表現しにくいのだが、
相手の、いわば「顕在意識の声」と「潜在意識の声」が、まるで多重音声のように、別々に、しかも同時に、聞こえて来ていたような状態だった。
今これを書いている私の自我状態も、交代人格として確立してからずっと、相手の「顕在意識の声」「潜在意識の声」「身体や内臓たち(更に深い潜在意識)の声」「魂(すべての内なる医師のような次元を含む)の声」とでも言い表すことができるような声が、4か国語5か国語が同時に聴こえてくるかのように聞こえており非常に人とのコミュニケーションは混乱し、自分の方法でそれらを聞き分ける(今ではセラピストとしてこれは役立ってもいるが)よう訓練してきたので、幼いこの頃もそうだったのだと感じる。

そして、この頃は、相手の「潜在意識の声」が、相手の本当の声だと思っていた。そして、自分自身の母国語も、潜在意識の方の言語だった。
そのため、私は知らず知らずのうちに相手の「潜在意識」に対して受け答えをし、相手の顕在意識としては顕在意識で発した言葉を無視され全くちぐはぐな返答を返されるのだから、会話がかみ合わないと感じてしまう。しかしながら、なぜだか「潜在意識」が「受け入れられた」感があるもので、どんどんどんどん引き出され、いつの間にか顕在意識と潜在意識の立場がひっくり返って潜在意識が優位になっており、要するに意図しないのに相手をトランス誘導してしまっているという状態になってしまっていた。
これは学生時代もずっと続き、普段の通常の会話をしているつもりなのに、いつの間にか(ちなみに自分も深いトランスに入っていたと思われる)、暗示が非常に入りやすい状態になっていたり、相手の水面下からトラウマが出て来たり症状がでてきてしまったり、症状が出て来たり解離がでてきたら仕方ない、それを解除したり…するようなことを、いつの間にか本能的に行っていた。

同時に、私は潜在意識の言葉が自身にとって母国語であったため、幼い頃から植物や動物たちとばかり会話していた。ある意味深いアニマルコミュニケーションだが、これは今もセラピーにも取り入れ使っている。
そして、私は、幼い頃から、顕在意識で人々が言っていることや、人々が反対意見で対立するような時なども、「同じことを言っているじゃないか」としか感じることができなかった。
自分の日常での他の子と何か違うとか、自分自身の中での違和感(性別違和や解離など)に何となく気付き、家の近くの中央図書館の書庫に入り浸って哲学やら宗教哲学、医学、脳神経学、精神医学など専門書を読みふけるようになったのは小学校の頃だが(漢字も読めないままに読み漁っていた)、その中で例えば一神教と多神教など、表面的には真逆の説明を見ても、「全く同じことを言っているじゃないか」としか感じることができなかった。
この器は幼い頃から、まあいろいろな環境的事情もあるのだが、「ひと」の友人は本当に少なかった。それでいながら、学生時代を通しても、なぜだか頼られる時だけ頼られ、用が済んだら捨てられていたような感覚がある。つまり、それらの人々の潜在意識が、私を思い出させては持ち掛けさせていたのかもしれない。そして、ある程度話すようになった友人からはどんどんそうやってトラウマやら症状やらが出て来たりしていたのだから、愛着や解離を奥深くに抱えた人と多く交友関係になっていた傾向もあったのかもしれない。

解離やトラウマに関しては、私は、後々使えるようになった言葉で言えば、「催眠」を利用した。
我々自身が解離の交代人格であったので、しかも我々の中には、潜在意識の奥深くから確立してきていわば潜在意識からの視点で物を見る人格が多かったので、ひとの心理の法則や、潜在意識との行き来、相手の潜在意識の中に入ったり探索したりというのは、本能的に当たり前のことであり、あとで外側・顕在意識側から学んでいった心の法則や潜在意識の法則など、体感的に気付いており知っていた。しかも目の前でトラウマ反応が出たりなどするのだから、反射的にそれを使って対処していたのだと思う。
中では、後々の言葉で言える、暗示療法、退行催眠やパーツセラピーも行っていた。
そしてこれらの誘導や中で行っていたことは、後年に学んだ催眠療法のスクリプトと原理原則を抑えたほぼ同じものだった。これは衝撃的なことだった。

初めて催眠というものを知り、催眠について調べ出し、最初の先生に出会ったのが、もう30歳近い時だった。

つまり一番最初の我々と催眠の馴れ初めは、自分自身で間違って催眠をかけてしまわないため、催眠技法を本能的につい使ってしまうことをコントロールするため、しっかり知識としても切り分けるためだったのだった。

この先生はラポール形成が非常に早く素晴らしく優秀な先生だった。最初のレクチャーの時、受講生たち(3人くらいしかいなかった気がする)に十分すぎるほど自己紹介をさせる。
我々は、解離などについては一切伏せて学ぼうと決めていた。なぜなら、催眠療法士は、精神疾患のある者の講座受講を認めてはならないという掟があるからだ。それが…忘れもしない(いや、交代人格だったのだが)、その中で、ついすっかり先生を信頼してしまい、全部ぶちまけてしまったのだった。
そして、この先生ご自身、幼い頃からご自身の中にいろいろな大きなものを抱えておられた方であったこともあり、非常に共感して下さった。そして、初級の講座に関しては、ほぼマンツーマンと言っていいほど少人数であったし、受けさせてもらうことができた。
そして、この先生がまた、ご自身のカウンセリングやセラピーの中にふんだんにエリクソン的な技法を当たり前のように織り込んでおられる方で、我々が人生の中でずっと人間相手に困ってきた問題…話が噛み合わないらしいが私は噛み合っていないことも気付かず相手の潜在意識に応え、相手の潜在意識を浮上させてはトランスに入れてしまったり症状を水面に出させてしまったりそれを消失させたり、退行やパーツセラピーも日常茶飯事の感覚で行っていたことなども話した時、初めて、「それはエリクソン催眠だね。同じようなことを気付かずにやってしまっていたんだね」と教えて下さり、そこで初めて、エリクソン催眠という概念を知った。

しかし、解離を理由に、責任を持つことができないと、これ以上の受講にストップがかけられ、あっという間に学びの道が絶たれた。
今から言えば、催眠と解離は非常に密接な関係性がある。
解離に催眠が覿面に効く(が、現代では効果が大きく覿面なだけに、潜在意識への効果を証明することや責任をとれないという理由で施術してはならないことになっている)、という意味もあるが、それと同時に、催眠の歴史を見ても、見れば見るほど、催眠研究と解離(当時のヒステリー)研究は非常に太く繋がっているのだ。
だから恐らく、深い解離のために催眠状態に陥りやすかったり陥らせてしまう技法を本能的に使いまくってしまう、だからこそそれに歯止めをかけて危険を回避するために、学びに来ているというのに。
…この時、確かこの先生も、同じ思いを感じていて下さっていたようだった。

それから燻った。自分で学ぼうにも、催眠は文字で学んだところでただの文字でしかないし、エリクソン催眠もこの頃少し読もうとしたが、前記事でも書いたように翻訳版はほぼ解読不能である。その上年若による読解力のなさなども加わって、まるで役に立たなかった。
燻っている間に、また別の師にも一度ついた。初級講座を学び、ひとまず資格をとり、日本の催眠療法協会へ所属したが、これまたいろいろな事情が重なって、中・上級へ進むことはできなかった。

私生活や学歴を省きながら書いているが、この記事では催眠にまつわるところだけ書くと、結局一番最初の師に初めて催眠を学んでから、5年燻ったことになる。
そしてその間に、2021年のことだが、私自身に、人生を揺るがす、恐らく人生の中で5本の指の更に上位に入るだろうと思われる、大事件が起きた。これにより、私の人生や世界への見え方もまた更にがらりと変わっていた中だった。

そんなことに重なり、最初の師のメールマガジンでふと、師が新しい、何やら壮大な心理療法体系を編み出したとの内容を見た。
説明を聞くと、聞けば聞くほど、私がその時、漠然と行いながら体系化しようとしていた考え方(私はこの時、既に細々とではあったがマイノリティの人たちや解離向けのカウンセリングや心理療法を行っていた)を代弁してくれているかのようで、更にちゃんと催眠と組み合わせられているものであるので、催眠も学ぶことができる。そうすれば、ちゃんと外部から顕在意識からの理論も繋げて社会的にも問題ない形で行うことができるようになる。更にはこの師の編み出したものは、本当に私が学ぶべき、この器の人生で成すべきことである、としか思えなかった。
そして、この先生に久しぶりに直にメールをして直談判で決死の思いを伝え、この先生も、私とのラポールのもとでなら大丈夫かもしれないと、但し様子を見ながらにする、危険を感じたら即座に切るよと、厳しい約束のもとで、受講を許可していただいた。

それからはスパルタ…と言ってはいけないかもしれないが、心身共に極限を体験するような濃密な講義と実習、そしてその中で自己との向き合い、自己の内側を徹底的に整理をしていく旅が始まった。
この時、先生のお弟子さん方や先生にも、気付きが早い、自己分析が早いと言われたこと、その意味を今になって更に実感するようになっている。
このコースを一通り終えてから、また更に上級へと進むことは私には金銭的に不可能だった。
しかし、その後も自己と向き合い深い深いプログラムを知っては整理をしていくことには寧ろ拍車をかけた。
その上、他の心理療法や私自身の持っていたものの点と点をどんどん線で繋げていった。
身体的アプローチとも組み合わせ、私の方法論は、文字通りホリスティックになっていった。

しかし、私にとって、深い部分は体感で学び取ってきたし、私自身の内側にあったものともどんどん繋がり裏付けられていったのだが、まだ、更に顕在意識視点からの、外側からの理論が足りなかった。
その上、エリクソン催眠に関しては理論では学ぶことがまだできていなかったし、更には私の本当に奥深い部分に大きな問題が残っており、(実はこれは後でエリクソン催眠を学んだ時に気付いたのだが)これこそが、私が自分の内側から本能的に使ってしまっていたエリクソン技法に通ずるような技法たちを、自分の中で封じ込めて窒息しそうになっていることだったのだ。

そのため、催眠の領域においては、3人目の師につくこととなった。
それからの私の奥底の「最後の砦」と思われるプログラムの除去、エリクソン催眠を学んで己の中で気付いたことなどに関しては、ここ数か月の中で書いている記事にまわしたい。

しかし、今ここまで来て、私は、通るべき道を通るべきタイミングで来たように、揺ぎ無く感じている。

<器の出生、身体についての記事>
脳性麻痺について

視覚認識状態について

<エリクソン催眠的なところでの気付き>


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