「視覚障碍」「見える・見えない」「見ることができない」とは、どういうことか

「見る」に対して「見えない」という対比的に言葉を浮かべてしまうのだろうと思う。
視覚障害者は、「見えているのか」「見えていないのか」というような白黒はっきりしろというような目で見られることが非常に多いようだ。

つい、「見える」という言葉で表現されるから、対比して「見えない」が出て来て、頭がどうしてもどちらかにわけたがるのだろう。
これは、顕在意識の特徴というものでもある。

「これ見える」「あれは見える?」「いつは見えるの?」「どこは見えるの?」……そういう認知のしかたが視覚障害に対する日本の一般的な非常に多くの現状。

しかし、そういう枠で括ることができる「視覚障害者」や「視覚機能をうまく使えない人」は、ほとんどいないのが現状なのである。


いや、そもそも、晴眼者といわれる人たちですらも、自分の見えている世界はなぜか「目」が見ていると思い込んでいて、脳が見ているとは理解できていない。もはや生まれて間もない頃からずーっと当たり前過ぎるように”目の前のものを認識はしてきた”ので、自分が物を見ているメカニズムや段階順序などは無自覚だし、知ろうとすることすらできないのだろう。そういうものは、不思議なことに意識的にもしないようしないように(無自覚に)動く人が多い。
それでいながら、晴眼者こそ、「見えている」つもりで「見えていない」ものがどれほど日常で多いか、まるで気付いていない人がほとんどだ。いや、そういうことに気付かないのが顕在意識の特徴であるので無論それで正常であるしそれで良いのだが、晴眼者と言われている人たちこそ「見えている」つもりでどれほどのものが「見えていない」か(物理的な目に見えるものでもそうでなくとも)、これはなかなか視覚障害者には非常に良く「見えて」いる。

しかし、そういう人たちも、自分は何が見えていて何が見えていないか、などということ、自覚できないだろうし言えないだろう。それが正常なのだ。それが当たり前なのだ。

だから、「見えない」という現象が「起こる」わけでもなければ、「見えない」という状態が「ある」わけでもなければ、「見えない」という「感覚」が「在る」わけでもないのだ。


私は特に、「見ることができない」「見るという行為を起こす」ことが困難な状態で在る。だから尚更、上記のようなことを痛感する。
しかしまあその前に、この状態、簡単にメカニズムだけさらっと説明すると、脳回路の連携不全により、「見る」という行為行動現象が起こること「それ自体」が困難、寧ろするとまずい、それ自体がダメージであるという状態である。
他の記事ではもっとしっかり説明しているものもたくさんあるが、「見る」という現象は、「光波刺激」を目の受容体が受け取り神経を適切に通って脳のあらゆる大量の部署が連携して協働しその「光の波動」という刺激が電気信号に置き換えられたもの(暗号)を情報として読み解き解釈し処理する(もうひとつだけ言えばその上で身体反応として外に出させることで外側に返す)、これが「見る」ということなのである。
この「見る」という超巨大で緻密なものすごいサーカスが、ヒトの24時間365日行われているのである。(例え瞼を閉じていても光波は瞼を通してある程度入ってきているし、どんなに顕在意識では薄暗く感じようが、光波がまったくないというシチュエーションはほとんどなく、ほぼ必ず「光波刺激」は目に飛び込んできているから)

しかし、私の場合、この「光波刺激」というもの自体が、脳がちゃんと処理できる暗号ではなく、その暗号解読チームがうまく適切に連携することができない状態にあり、「光波刺激」自体は(医学的初見では異常のない)眼球には入ってくるが、神経や脳の段階で「ノイズ」「打撃」となってしまい、身体や精神にダメージを与えるものでしかなくなってしまっているような状態なのだ。

そして、ついでに言うと、多くの人は「見る」現象が当たり前過ぎてどうにもまるで無自覚、いや無自覚という言葉すらもまどろっこしいと思えるほどいつの間にか物を見ているつもりでいるが、私の場合はどうやら連携不全でそれでも幼い頃から無理やり別回路で処理と似たようなことをしてきた経緯があったからか、「無理して視覚情報処理」をしているときの回路や段階・順序が、ほんの少しなのだがわかる。というのも、その回路でかなりの負担がかかっているがためにその負担ゆえに相当一生懸命一生懸命無理をかけて、明らかに他の人と別のやり方で必死に処理をしようとしているのだなということがわかる。
それほど、「当たり前」ではないやり方で、それでも必死で入ってくる光刺激を何とかしようとして処理しようとしているようなのだ。

しかし、その負担は精神にも身体にも大ダメージなのである。
閉瞼で瞼ごしにしばらく光を目に入れているだけでも、僅か1㎜程度の瞼の隙間から来る情報(しかも普通の人より輝度を10分の1以上に落とした上で遮光グラス越しに見ているほどに光の少ない、逆に見分けることのほうが困難なくらいの)を必死で少しずつ処理しても、すぐに疲れ切り突然身体症状精神症状としてあらわれ、翌日や下手をすると数日~数週間起き上がることも大変になったりする。


そんな私であるから、それでいて身体や心の専門家でもあるがゆえに尚更なおさらに感じることを綴ってみた。

視覚障碍、というのは、「何かが見えない」とか「見える」とかいう次元の話ではなく、
しかしその理由はどうあれ、「脳が感知していない」+「認識していない(反応として出て来ない)」ことなのである。

そして、それを補うため(つまり日常生活を少しでも健常者世界に適応して行うため)に、白杖を使うなり、いろいろな道具やアプリを工夫して使うなりということもしているわけなのである。


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