グレーゾーン症状と人間関係

(丁度1年程前、まだ大勢-100人越え―の交代人格がいたときに、いち交代人格が書いたものを再編しています)

突然ですが、僕達の中には、視覚や聴覚に不自由のある人格が多いです。

特に、視覚に関しては多く、しかも代々表に出やすかったり表に出たら精神的に非常に安定する人格、代々主人格は、日常に困るほど視覚状態が違う人が多いのです。

最近、Twitterのフォロワーさんと、診断名に拘わらず困っている状況やアイディアについて声を上げていくことが必要、という話になったこともあり、今回は僕達の中に多い、視覚の問題について記事にしてみたいと思います。


僕達&器の視覚機能の状態

僕達は、器(身体)自体も生まれつき脳性麻痺で、目が見えるようになったこと自体他の赤ん坊より遅かったためか、非常に聴覚や体感覚優位で、視覚情報が脳に入ってきにくい・残りにくい。また、視認に時間がかかる。見えているものを信用できない。また、これは自分達が他の人の器で物を見たことがあるわけではないので比べられるものでもありませんが、どうやら視野も他の人より狭いらしい。動体視力も弱く、追視ができず、焦点が移り変わっていくのが苦手…つまり、ぱっと振り向いたり、目の前でさっと動かれたり、螺旋階段のようなどんどん焦点が変わっていくような動きをすると、視界がぶっ飛ぶ。

発達障害の診断も受け、感覚過敏もありました。視覚のことに関してあげると、特に羞明、明るさを人よりどうやら眩しく感じているらしい。また、白いものも眩しく、横断歩道や白いタイルの道路などが眩しい。そして眩しさゆえに、その周りのものも眩しさに覆われて目が眩んだような状態で見えにくくなっている。人工光が苦手で非常に眩しく感じたり目が疲れやすかったりする。

また、夜盲のような症状もあるのか、夜や暗い場所が、どうやら他の人たちが見えているよりも暗く見えているようで行動に支障が出ることがある。更に羞明で、夜の電燈や車のライト、ネオンなどが照らしていれば周りが見えるかと思いきや、逆にその光の眩しさが目に飛び込んできて視界に光線が舞っているような状態になり、暗いところは対比で尚更真っ暗になり、周りがまるでわからず行動不能にすら陥る。

…と、そういうような症状が、この器自体にあります。


そしてその上で、僕達交代人格も、更に視覚情報の扱いが弱い者が多いのです。羞明や夜盲が強かったり、色覚に異常があったり、弱視だったり、PDES(眼球使用困難症)のような症状が表れる人も。全盲の人もいるのです。

実は、今回の記事では、それぞれの症状や状態を説明したいわけではありません。そういう記事もいずれ書いていこうとは思っていますが。

丁度現在、羞明と夜盲の症状を持っている人が混ざっていることもあり、ふと思ったことを、症状などよりも、具体的な面からひとつ、記事にしてみようかと。本当はその人本人が記事にすればもう少し要領よくわかりやすい記事になるのかもしれないのですが…。

…いや、ただ、実際そういう症状を持つ本人達は、説明できるような形で自覚がないのかもしれません。混ざっているからこそ、ああこういうことか、と思えて言語化できているのかも。


視覚状態が一般と違う人たちと歩くとき…


◆こういう見えにくい特性のある人と歩く時、「大丈夫?見えてる?」と聞くのは気遣っているようで逆に危険かも

…ということをちょっと思い付きで書きたくなったのでした。


弱視や羞明、夜盲などは、その時々の自分の状態(心身の調子)によっても、度合いが変わったりする。

しかも、なまじ「見えている」ので、周囲の状況を自分がどれだけ見えていてどれだけ見えていないのかというのが、リアルタイムで自分でわからないことの方が多い。

他の人の器を使ったことがない上生まれつきだからこの器が他の人よりどれくらい視野が狭いのか動体視力が弱いのか比べようがないのと同じですね。

全く健常と言われる見え方の人でも、何かに気をとられている時に視界の端でちょうちょが飛んで、隣にいた人に「ねえねえ今ちょうちょ飛んだよね!見た?!」と言われても「え、気付かなかった、見えてなかった」となりますよね。隣の人に言われなければ、ちょうちょが飛んだことなど知りもしないはずです。つまり、見えていないものは「見えていない」自覚があるわけがなく、見えていないことにも気付いていないから「見えていない」のです。

なので、一緒に動いている時、「見えてる?」と聞かれるのって、あるあるなんだけど本人どうこたえていいかわからないかも、って話でした(笑)

見えてるは見えてるんですよって(笑)ただ、恐らく全てが見えているのであろうこの人から見て必要と思われている水準まで見えているかどうかと言われるとわからない。そして自分が見えていない部分に関してはそもそもわからない

でも、一緒にいる側もどう聞けばいいのかわからないですよね。

だから、そういう場合、例えば一緒に買い物とかで陳列棚見ているとかだったら、「何か一緒に探す?」とか、「言ってくれれば商品情報読むからねー」とか「気になるところでもある?」とか漠然と聞いてみて何となく本人の視線が行った方向を捉えたら「あ、この辺?この辺、〇〇とか置いてあるよ」とか言ってそこから話題として広がっていくとか、そういう方がお互いコミュニケーションもスムースかも?


◆グレーゾーン症状とコミュニケーション

僕達の場合、視覚や聴覚で生活上支障がある交代人格が多くいる…というよりもそういう人が表に出やすかったりするので生活にも支障が出やすいのですが、「交代人格」というレッテルがあり、器質的な問題ではないため、こういう話題を記事にすることは非常に躊躇っていました。

しかし、網膜色素変性症の人でもPDESの人でも感覚過敏の人でも弱視の交代人格でも、見えにくい"特性”という意味では共通項があり、生活上の困りごとについても共通項がある、その限りは、共有できることがあるはずだし、交代人格で物の見方が少し違うからこそ、また今実際こうして他人格と混ざって色々な気付きを得たりもするからこそ、共有できる内容もあるのではないか、と、ある方とお話していて気付いたので、こうして記事にしてみようと思ったのでした。あくまで僕達の中で多い例でもありますし、同じ特性があるからと言って人間としての性格の違いなどもありますから勿論人によるでしょうが、この記事で書くことは僕達の一例としてご査収ください。


全盲の人や光覚だけの人など、周りの状況を判断するのがほぼ困難な人は、移動するのに手引きなり白杖なりを必要とします。なので、一緒にいる方は腕なり肩なりに掴まってもらうのが一緒に動く手段としては良いと思うのです。本人もその方が助かると思います。

ただ、「見えにくい」人は、程度が様々なので、掴まらせてもらった方が安心な場合もあれば、ひとりで動けるし一緒にいる人の行動もわかるけど、その時々でできれば必要な手助けが欲しい場合もある。

これは、人間同士のコミュニケーションの問題で。

特に、中途失調(人生の途中で不自由が表れた人)やいわゆる「グレーゾーン」で見た目不便があるのかないのかよくわからないけれど本人としては他の人と全く同じやり方で同じことはできない、というような人たちにとっては、自分から「これ手伝って欲しい」ということが酷く苦手だと思う。

というのも、「それくらいできるだろう」と思われているだろうなという前提的思い込みがあったり、自分自身その時々で状態が違ったりいきなり眩しい場所に出てその時だけ困難な状況が発生していたり、できそうでできなかったりほんの僅かな手助けさえあれば自分で大丈夫なんだけど…というようなことも多い。というか、自分自身、なんか手間取りながらも助けを求めていいのかわからないことも多い。

一緒にいる人の側も、なんか失礼な気がして何ができて何ができないのかを聞けないとか、なんかやりにくそうだけど声かけてこないし手伝っていいのかわからない、とか、逆に「ああ、見えてないんだな、時間かかってるわ、手間取ってるわ」と思って先回りしてやってあげちゃうとか、そういうことも起こって来る。

先回りしちゃうことは親切なのではと思われるかもしれないけど、本人としては自分でできそうだから自分のやり方で解決しようとしているところ、「ほらやってあげるから」とぱぱっと片付けられてしまうと、「自分が遅くて迷惑かけたのかな」「この人にとって自分は足手まといかな」と思ってしまったりして、逆に存在否定に近い感覚を受けてしまい、尚更必要な時にSOSを出せなくなったりします…。

普通に例えばすごい大荷物持ってよろよろしている友達に、「なんであんたそんな大荷物持ってんの、持てないでしょ仕方ないんだから」って断じて荷物奪ったりしませんよね。「え、何ちょっと大丈夫ー?(笑)重いんでしょ、よろけてるしwwえ、手伝おっか?1個くらい持ってやるよ」くらいでしょ?笑

それを、「障害」レッテルを無意識に相手に貼り付けて、自分ができることなのに相手が手間取っているのを見て「この人にはできないんだ」と断じてやってあげたりしてしまうのは、相手を腫物扱いしてるとか、逆に自分が相手のその状態を意識したくないからとか、気遣いではなく保護者的目線からの「過保護」だったりとか、そんな反応になってしまっているのかもしれない。

難しいけれど、どんな相手でもどんな時でも、"相手のありのままを受け容れる”というのが人間関係一番大事。

何が必要で何が必要でないか、わからないならお互い聞き合うこと、大事。

一緒に動いている時も、一緒にいる側は「何か私で手伝えることあったらいつでも遠慮なく言ってね」と常に伝えておくと、相手も安心できると思う。

そしてやっぱり感覚が閉ざされている側の方が積極性もうまく発揮できなくなりがちなので、積極的に聞ける性格の人だったら気付く都度「あ、これこうした方が歩きやすい?」「こここんな店あるんだよ、知ってたー?」など必要そうなことを聞いたり相手の弱い情報補うような会話をしてみたりするとお互い聞いたりSOS出しやすい関係が成り立ちますよね。

…この記事、視覚面を取り上げてはいますが、これどんな不都合でも全く同じだと思う。ただ単に例にしているだけで、ただ単に人間同士のコミュニケーションの話誰にでも得手不得手や都合不都合ありますから。

そして、例えば一緒に歩いていて眩しそうにし出したなという感じがあったら、「眩しい?あー、この横断歩道?そっかこういうのも眩しいんだ。もし目開けてるの辛かったら肩掴まっていいからね」とか遠慮なく状態を聞いていいと思うんです。だって、それがありのままのその人のその時の状態なんだもの。寧ろ黙られている方が本人側も「ちょっとキツいんだけど言っちゃいけないだろうな」とか思ってしまいやすい。「あー今見えてないんでしょ。掴まってろよほら危ないな」などと断じられたりしたら尚更、自分ひとりだったらこれくらいでも歩いてるし…ひとりの時には何とか自分ひとりでやってることなのに迷惑かけるのは…見えてないって決めつけられても…などと思ってしまって殻にこもってしまう。でもそういうのって道歩いている中お互い危険な状況に繋がるので。

グレーゾーン、本人の側も

そして本人側も自分でわかっている範囲では伝えておくことがこれまたコミュニケーションの第一歩で。まぁ…コミュニケーション全て信用問題だから、信用のおける人にしかなかなか言えることではないけれども。でも、一緒に行動するくらいの関係なら(例えグループだろうと1対1だろうと)、とにかく危険を避けるために「ちょっと眩しさを感じやすくて信号とか見えないことがあって」「ちょっと視野狭くて見失いやすいので横(斜め前)歩いててもらえますか」とか明らかに必要なところから小出しにはしておく、ということを心がけてみると良いのでは、と思う。細かいこと最初から説明しなくても「今は大丈夫なんですけど場所や状況によっていきなり周りが見えにくくなったりするのでSOS出すかも」みたいな伝え方をしてみるとかね。

 交代人格の場合、これ、すごくしにくい。特に器が問題ないと思われている場合や、他の日常生活に支障のない交代人格を知られている相手の場合。自分が相手の前で出る事自体躊躇ってしまう。

しかも交代人格の場合“交代すれば”現状打破できる可能性が高いので、”代わればいいだろう”と自分でも思うし相手にも思われているだろうという思い込みから、自己表明する前に一生懸命代わろうとしちゃったりするんです。…確かに交代すれば見える人格なりその場での問題を回避できる人格が出てきて、「そのピンポイントの問題状況」に関しては乗り切ることはできます。

が、この時別の問題が生ずるんです。その都度交代するのって、かなりエネルギー消費するし脳疲労も激しい。代わること自体にも時間がかかるし、誰に代われるかわからなかったり、代わった後の人格がその場の状況やその日の状況、一緒にいる人との関係を把握できていなかったりする。更にその交代で、それまで保っていた内部バランスが崩れて後で一気に不安定になったり体調崩したり。また、僕達の場合は”表に出ていて心身共に安定しやすい人”に視覚の問題が多かったりするので、うまく内部に戻れなかったりその人が一番対人対応しやすかったりしやすいです。それに意図的な人格交代というのは、「その人が戻らなきゃいけない状況が発生する=存在否定」に深層意識的に繋がりやすいので、やはりその一緒にいる人との関係は深層心理で一線ずつ距離が離れていくようになります。

…どっちの問題のが大きいよ?どっちのが問題多いよ?って感じですね(笑)


内部の交代人格を知ってくれている程の相手なら、こういう時にこういうことで困るので迷惑かけちゃうかも…とかちらっと言っておくくらいできるはず。それで否定されたり拒絶されたら、それまでの関係だし、そういう人は他の日常生活に支障がない交代人格も、交流を持つのは危険(交代人格である限り、解離や障害、マイノリティについてもちゃんと認識されていない可能性が高い)。

そして、一緒に行動する限り危険な状況に陥る前に、自分でわかる限りのことは断片的にでも伝えておこう。何も知らせずに突然視界がぶっ飛んだり下半身ヒステリー起こしてくずおれたり喋れなくなったりするような事態が起こるよりもマシだよ。

ちなみに俺達解離者は、人格交代が起こった時にいつこういうことのどれが起こってもおかしくありません。


中途失調と先天性


さて…「困りごと」については、やっぱり慣れもないので書くのが難しい。

ただ、これもマイノリティ的話題であり、人間関係のやり方の話題でもあり、自己啓発的な考え方にも繋がる話題でもあると思うので、こういうことに関してもちょくちょく記事にしていきたいと思います。

追記ですが、俺達解離者の交代人格の中にも、中途失調(途中から不自由を抱えるようになった人)と、先天性(生まれつき)の人がいます。

中途の人と先天性の人では、同じような症状を持っていても心理的状況やその状態に対する自分自身の捉え方が、全然違う場合が多いんですよね。人の性格にも寄りけりだと思うのであくまで傾向ですが、先天性の人は、生まれた時からその状態であり健常の状態をそもそも知らないので、自分ができないことはできないと言い、助けが欲しいところではSOSも出しやすい。

ただ、中途からいずれかの感覚や四肢などに失調を抱えるようになった人や、先天性でも進行性で刻々と状態が変わっていくような症状を抱えた人は、「自分が持っていたものを失っていっている」というコンプレックスが強烈に感じられてしまっていたり「最近までできていたし今も手伝ってくれと言っていいほどの状態なのかが自分でわからない」ことも多いため、なかなかSOSを出せない傾向があるかもしれません。

うちの生まれつき全盲の交代人格ではある時初めて外部の人の面前で浮上して、あれ、何かおかしい、と気付かれ、「目が見えてないの?」と聞かれ、「??」と首を傾げたようなくらい、それまで自分の状態を知らなかった者もいますが…先天性の人の場合、他の状態を経験したことがないので、自分と他人の違いを知るまで自分の状態自体に気付かない場合もあるんですよね。

しかしその後、その外部の人とは案外スムース。わからないことやできないことはストレートに伝えるし、必要なことは案外はっきり言う。まあ、その人の性格もあったかもしれませんが(開けっ広げな性格&頭の回転も速い人だったので)。もしくは、それまで内部で周りの人たちとは普通のコミュニケーションとしてそうしていたのかもしれません。

そしてうちの中途から四肢や視覚が不自由になった人は、性格的には非常に理路整然とした人でも、自分の状態を説明することに関しては物凄く言語化が苦手。恐らくうまく説明することもできない上に、葛藤がいちいち邪魔をする。結局なるべく隠そうとする。内部同士でも行き違いがあったり気付かなくて支障が出て「そうならそうと最初から言えよ」みたいなことが起こってしまうこともあります。

Harlequinsと直接知り合いの方は、ぜひ会ってみてください。先天性の人と後天性の人の決定的な違いが、対比しやすくわかりやすいかもしれません。

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