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哲学する演劇

 東京で演劇作家をしている、COoMOoNOの伊集院です。

 先日、私が講師をした演劇ワークショップを見学に来てくれた大学の恩師から「生真面目に、哲学する演劇を続ける覚悟が素晴らしい」という身に余る賛辞をいただいてしまった。
 近年は厳しい世情もあって、積極的に自分の作品や演劇観を世間に問うことが出来ないでいたが、恩師をはじめ敬愛する先人たちも歳を取り、私もいつのまにか若者でなくなってしまったので、そうも言っていられないと、出来そうなことからちょっとずつ発信していかなければと自らを奮い立たせ…ながら立ち切れずボーっと過ごしてしまう毎日。

 ワークショップで何をやったかというと、受講者がレポートを書いてくれたように、演技について、特に我々が普段何気なく取っているコミュニケーションについて、過程を言語化して取り出し、意識的に行ってみることだった。それは自分の作品稽古でも常にやっていることで、恩師の言うところの「演劇を哲学する」という取組である。

 せっかくnoteあるのに主宰が一度も記事を上げてないという由々しき事態をまずはなんとかしようと、東京で演劇をやりながら感じていることを書いてみたので、心が元気なときに読んでいただけると嬉しい。



主宰、コソッと昨今の演劇事情について語る


 演劇は観たい人(好きな俳優ではなく「演劇」を観たいという人)の数に比べて、やりたい人の方が多いと感じる。アニメを見て、テレビドラマを見て、映画を見て、コミュニケーション力を付けるため、自己表現欲を満たすため等、きっかけはそれぞれだろうけど、とにかく俳優になりたいと言う人の数は減っていない印象がある。(本当は演技がやりたいんだけどアイドルです、インフルエンサーですという人も含めて)で、厄介なことに、「舞台演劇を見て」俳優になろうと思った人はすごく少ないのに、俳優になるための入り口は「舞台演劇」であることが多い。演劇は、割と誰でも出られるし、出来るからだ。舞台ほとんど観たことないけど舞台出ます!ということが珍しくない。

 今から書いていくことの原因は、日本が30年以上も間違った経済政策をし続けた結果、人々にお金=時間と心の余裕がないことにあると思っている。お金についての問題が解決すれば大体はどうにかなると思いつつ、そう簡単に日本という国は変わらないので、棚にあげて語ることを許してほしい。

演劇のチケットは高い。

 私は親戚がとても多いという恵まれた環境によりもたらされたお年玉という宝刀を武器に10歳くらいから信じられない数の舞台を観させてもらった。 
 初めはセーラームーンのミュージカルが好きで、キャストさんが他の舞台に出ると観に行くという所から観劇のハードルが下がり、ミーハーなのも相まってどんどん頻度が増えていき、高校生になると月1回は必ず、大学1,2年時はほぼ毎週何かしら見ていた。そして、大学3年から自分でやり始めた。
 一度きりで二度と見返すことのできない舞台芸術。こんなにたくさんのお金をつぎ込んだのに、きちんと覚えている作品は手で数えられるくらいしかない。ただ、観ているのといないのとでは全然違うはず。以前stand.fmでやっているラジオ内で所属俳優の畑中が言ってくれたように、「なんとなくこうした方がカッコいい」という演出はたくさん観てきたおかげで分かるようになったとしか言いようがない。
 まあ、ただたくさん観ればいいかと言えばそうではなくて、たとえば寿司職人になりたいから回転寿司チェーンに通い詰めました、ではダメなことが分かるように、自分が観やすい演劇だけを好きで観ていてもためになるかというとそうではない。私の中で大きかったのは、やはり高校の演劇部時代に師匠である山崎哲氏を知ったことだと思う。演劇部のコーチだった稲垣さんから哲さんの演劇論を教わって、「考えながら」観ていたことが非常に大きい。つまり観るときの一つの物差しである演劇論を知り、それを通して作品を観る目を養ったことだ。感性だけに頼らない見方を体得すれば、好きなものに絞って観ても毎回それなりの収穫があると思う。ただ、見方を知らずにやみくもに観るのであれば多ジャンル、まんべんなく観ることをお勧めする。というか、観るための物差しなんて、なかなかすぐに身につかないから色々観よう、と結局は思う。けど……なけなしのお金を使うなら好きなものをという気持ちもとてもよく分かる。

 改めてお金の問題は置いておくとして、今、やりたい気持ちばっかりで、観ていない人が多いと感じる。演出家,脚本家,俳優,舞台スタッフが、自分の仕事が無い時は必ず何か観に行ってさえいれば、もう少し客席がにぎやかになると思うのだけれど、なかなかそうはいかない様子だ。観たい気持ちがあったとしても、舞台スタッフは毎週現場が入っていて、俳優も本番がない時はレッスンやバイトで忙しかったりすぐ次の稽古だったりで、観に行けていないことが多いのではないだろうか。どうだろうか。
 なにより気になるのは、まだ自分でやり始めていない、学生さんたち。地域格差の著しい舞台芸術で、田舎から東京に出てきた子は浴びるように観たいだろうけど、一人暮らしで生活が苦しかったりするし、東京は娯楽が他にもたくさんあるからついつい先送りにしちゃったり。この情報社会の中で演劇へのアンテナをどう張っているのかとても気になる。私が大学に入学したのはもう15年も前の話で、その時と現在ではネット上のコンテンツの量も人々の金回りもチケット代も全く異なっている。消費したいコンテンツが溢れ、その中で時間的にも金銭的にも非常に摂取しにくい演劇が、好きな人の中でさえも優先度低めになってしまっている気がしてならない。
 自分が触れられたごく一部の演劇を頼りに漠然としたイメージのみで志す人が多いので、なるべく多くを観る機会・知る機会を作ってほしいし作れたらいいなと思っている。

演劇オタクって、いる?

 実は、演劇が好きでやりたいという人って本当は少ないのではないかとも思っている。それは講師をやりながらの実感なんだけど。映画が好きで出たいんだけど、まずは演劇から、とか。声優になりたいんだけど、舞台は機会が多いから、とか。作家も、演劇というより自分がたまたま出会った作品が好きってことが多いように思う。別にそのことを直接否定するつもりは全然ないけど、演劇そのものが好きで、オタクのようにその歴史や影響、良さについて語る人がもっとほしいな、と。正直、他の芸術ジャンルに比べて業界内の共通言語がないことが演劇のネックだと感じている。演劇は作品が残らないから継承されにくく、先人たちの試行錯誤がどんどん無かったことになってしまう。それがしんどい。みんな常に自分なりに演劇を模索してしまい、バラバラ。演劇とは創ることによって探す、獲得していく過程のことだ、そして「演劇は何でもあり」という思考停止な決まり文句……。記者にも評論家にも責任があると言えると思う。歴史的文脈を学ばず「実験」と称して作品を作り、演劇としてどうなのかが蔑ろになっているのも目にするし、理想の作品をつくるためには過程はどうだっていいとパワハラが横行したり、無我夢中で作って、作品の評価は他人に丸投げっていうのも非常に多い印象がある。

創作欲求と承認欲求

そして、作家ではないから語るのが苦手で、ただ純粋に演技がしたいという俳優についても、思うことがある。それは、「演技がしたい=褒められたい」になってはいないか、ということ。好きなことして褒められたいんじゃなく、ただただ褒められたい、そう思っていないだろうか。演技っていうのは、身一つで、道具も何もなく、技さえ持ってなくても出来てしまう。だから、上手にできた時に自分という人間そのものが褒められたと感じられる。「あなたの生まれ持った声と身体、感性、心を使ってやるんだ!」なんて言われたら、ね? 演技そのものというより、自分自身が肯定されたような気が強くする。もちろん、他のジャンルだって頑張ってやったことが褒められたら自分自身が認められたと思うけど、やっぱりそこに至る過程というものが目に見えて分かりやすい。「この方法でやった成果」が褒められたんだと思う。これが演技の場合は、過程が取り出しづらい。たとえば役に没入して覚えていないままやったことが褒められることも多々ある。それはもう無意識が褒められていることになって、すごく強く自分を肯定された気持ちになれる。ここが罠だと思う。
最初は純粋に憧れとか、人の勧めとか、ひょんなことから演技を人前でしてみる。そして、褒められる。「感受性が豊かだね」「いい声だね」「美人だね」……ほら、自分自身を褒められている。だから、次からそれを求めに行っちゃう。
 「絵がうまいね」と褒められたら「絵」が褒められたんであって自分じゃないって誰だって分かるし、「まあうまい人なんていっぱいいる」と思って、作品と自分との距離を埋めようとしたり離したりしようと練習する。演技には大抵の場合それがない。
 翻って、演技を漠然としたイメージと感性だけでもって深めていくと、今度は「役」が褒められているんであって自分は空っぽだと感じるようになってしまう。演じているときは素敵だけれど、演じていない素の自分には何もないと思ってしまう。これも大変なことだ。普段はうまく喋れない,思いを伝えられないけど、お芝居の中だと出来るという話もよく聞く。これも危険だと思う。

我々がしているのは何か

 演技は過程が取り出せないことが落とし穴だという話は師匠の著書「俳優になる方法」に分かりやすく書かれてあるのだけど……。このような演技・演劇論って恐ろしいほど難しいから挫折するのも分かる。ただ、今自分たちがしている演劇という営みがどんなものでどんな歴史を辿りどんな試みが過去になされてきたか、もう少し興味を持つと良いと思う。
 しっかり観て学んで考えれば、演劇の良さ,楽しさがもっと濃く実感できるはず。

 どんなものだって人前で演じられれば演劇なのか。定義は人それぞれ勝手でいいのか。古今東西の演劇を堂々と比較し、「それは演劇じゃない」と言う勇気が今こそ必要なのでないだろうか……。
「演劇ってなんだろう?なんでも演劇になるよね、演劇って懐が深いね」という緩い連帯が閉塞感を生んでいる気がしてならない……。

といっても

 結局、私も勇気がなく、演劇界というものに割って入ることなくただただ、都会の片隅で、「生真面目に、哲学する演劇」を続けているのだけど、真ん中に行きたくないと思っているわけではないし、同じような志の人に出会えたら良いなという願望はあるので、片隅だけど公に書き記しておく。
 コソッ。



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