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【小説 喫茶店シリーズ】 Ⅱ. ドトール「新町店」 (vol.4)

ボクは、どうも相当な程度で混乱していた。
もっと正直に言うと、肉体をそこに置いて逃げ出そうとしていた。

その時のボクは、「明子は、一体どうしたんだ?」と、そもそも今日ここで会う約束だった後輩のことを、現実只今のボクの問題の方に気を向けた。
そう思うようにボクの脳内司令が配慮していたのだ。
「深入りしてはいけない」と。

ところが、このボクの肉体の管理者に対して、ダイモーン(指導理性)の方は、「逃げだしてはいけない」と耳元で囁くと、ボクの口をこう動かした。

「芸術は、殊に詩は、他人(ひと)と分かち合うことができません。恋人と一緒に展覧会の絵画を観に行ったとしても、感じ方は別個なもので、せいぜい、愛する人と一緒に観たから共感できた。と思うだけ、そう思いたいだけです。それ以上に、例えば、リルケの詩を恋人と分かち合うことはできません。 詩こそは、一対一で語り掛けてくるものだからです。 だから詩人は、本質的に孤独なのです。自ら孤立の原野に立つ者です」
「これは、ボクが唯一大学の講義で記憶に留めた、”ブロツキー” のノーベル賞記念講演での一説です。多分にボクの個人的な感想を盛ってますが、「詩」は、あくまでも「私(個人)」に帰属するものだということです。誰かを感動させるためではなく、ましてや誰かに説明するものでもありません。書いた本人の私と書かれた詩とが、一対一で向かい合っているだけです。そこに他者は介在しませんし、できないのです」
「お話を聞いて、ボクの中に強く蘇りました。ご主人?がどういう人なのかはわかりませんが、一恵さんが言うように『詩を生きた』というのは、きっとそうなんだろうなとボクも思います。・・・できれば、会って話をしたかったですが」

黙って、真剣な目付きで聞いていた一恵さんは、深く頷くと、
フッと全身の力を抜いたように見えた。
「なるほど、“詩は共有できない”。 そうよね。だから、彼は何も言わずに行ってしまったのよね。 どこかの本にあったけど、“夕陽が綺麗すぎて身投げした”という話。そういえば思い出す。その感情は、その時のその人だけのものだし、他人に説明なんかできないものね。 わかるような気がする」・・・
「ごめんなさいね。散文的にしか話せなくて」と、彼女は断りを入れたが、
その潤んだ瞳は、十分過ぎる程に詩的な輝きを放っていた。

本当に美しい人だ、と思った。
シーモアが一緒になった無邪気で美しい「ミュリエル」その人ではないかとさえ思えた。
自死した一恵さんの彼も、この人と一緒になれて本当に幸せを感じていただろう。
だから、その生きた時間の長短は、関係ないんじゃないかと、フト思えた。
そして、ちょっと間をあけてから付け加えた。

「少し、直接的できつい話かもしれませんが、そもそも、“死”に理由は必要でしょうか?」
「例えば、事故や病で亡くなったとしても、それらは原因であっても、理由ではありません。そういった原因がはっきりしている時以外だけ、残された人が納得するために理由を探すのではないでしょうか。 人は、理由なく生まれます。なのにどうして他人の死には理由を求めます? 多分、死んだ本人よりも自分が納得して終わりにしたいからなのではないでしょうか」
「謎は、謎のままにしておいては、 とボクは思っています」
「でも、『幸せすぎる』からの“死”も、ボクはわかるような気がします」

そして、
「とは言いながら、ボクは今、本当に混乱しています。同じくサリンジャーの書いた『ライ麦畑でつかまえて』の中に、精神分析医学者のシュテーケルが残した詩句の一節が出てきます。 ご存じでしょうか」

”未成熟な人間の特徴は、理想のために高貴な死を選ぼうとする点にある。これに反して成熟した人間の特徴は、理想のために卑小な生を選ぼうとする点にある”

「ボクは、最初にこれを読んだ高校一年の夏以来、縛り付けられています。このお陰でずっと揺れ動いているんです」
「ボクはその頃、希死念慮に支配されていました」
「理由なんかありません。『空が碧かったから』とか『秋の庭に薔薇が再び花をつけた』とか、そんなところです。でも、今もこうして”卑小な生”を生きているわけで、いいのかわるいのか。いまだにわかりません」

この最後の詩句は、言わない方がよかったかなと思ったが、後の祭りだった。
(普段、絶対的に「無口」で、亡くなった祖母からは、それが故に行く末を案じられもし、他の近しい人からは「いったい何考えてるの?」と言われる程なのに、一旦、口の蛇口が開かれると、決まって一言多いのだ)

一恵さんの頬がみるみる紅潮してくるのがわかった。


 
(つづく)

  

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