飯田真=中井久夫『天才の精神病理 科学的創造の秘密』(岩波書店・2001年)
我々凡人は、しばしば天才に魅了される。現に、インターネットにしろ何にしろ、天才の名言や習慣などの情報を取り上げれば枚挙に遑がない。これらの情報を羅列したWebページなどはすでに目が腐るほどに見飽きているくらいである。
そして、これらの情報を参考に、天才を見習って自分自身も彼らのように秀でた頭脳を得たり、華々しい業績を残したりしたいと思っている人も少なくなかろう。このような態度は、凡人ならば誰もが一度は抱いたことのある天才への憧憬感情に由来する。むろん、筆者自身も例外ではない。
しかし天才とはいえ、彼らもまた、我々凡人と同じように家族がおり、友人や恋人がおり、様々な人間との関わり合いの中で現実の世界を生きている。したがって、どんな天才であっても、彼自身が一人の人間として生きた固有の生活史を有しているのであり、現在ではただ無機的に羅列されているだけの名言や習慣なども、その一つ一つの背後には、極めて個人的な生活史上のコンテクストが存しているはずである。そうだとすれば、そのような文脈の一切を排除して単に天才の名言や習慣の字義のみから自分の生活のための学びを得ようとする姿勢は、あまりに早計であり、ともすると無意味な徒労に終始する羽目に陥る可能性さえ孕んでいるのである。
本書は、人類史上でも屈指の天才に数えられる6人に焦点を当て、彼らによる創造の成果を、精神病の観点からそれぞれの生活史上に跡付けていく。このような試みは、従来から「病蹟学(pathography)」として様々な系譜の下に行われてきたという。ただし、従来の病蹟学は芸術家や文学家を対象とすることが多く、科学者を対象とするものはほとんどなかった。そこで、本書では主に科学者を対象とする病蹟学的探求に踏み出したという経緯がある。
例えば、我々はこれまで、継続的努力の大切さについての説教を耳が痛いほど聞かされている。そして、その説教においては、天才のエピソードを引き合い出す人も少なくないはずである。彼らが残してきた目を見張るほどの創造的な業績の数々は、我々の目には努力の産物として魅力的に映る。
しかし、精神病的天才ともなると、その前提も瓦解してしまうだろう。というのも、「病気のゆえに創造的行為がなされたのか、あるいは病気にもかかわらず創造がなされたのかという両者の連関性」(本書3頁)によっては、彼らの業績を見る目も変わってくるからである。
「病気にもかかわらず創造がなされた」のであれば、これは紛れもなく努力の成果であると言える。しかるに、「病気のゆえに創造的行為がなされた」のであれば、彼らの業績は、むしろ現実世界との接触がもたらす苦しみから逃避した末路であるとも考えられるのである。彼らがもしそちらの方に属するのだとしたら、少なくとも、精神的には健常である凡人が彼らの真似をしたところで、骨折り損のくたびれ儲けに終わる蓋然性は0ではあるまい。努力と逃避では行為の性質が違いすぎるからである。
例えば、ニールス・ボーアについての上の記述はどうであろうか。著者は「努力」と書いているが、これは果して努力であろうか。努力であるにしても、あくまで自己否定的色彩を帯びた努力、すなわち、「これができない自分には満足できない」といった、自己存在に対する否定を背後に据えた努力ではなかろうか。したがって、この「ボーア的徹底」は、努力であると言うよりも、むしろ永遠に満たされない苦しみからの無意識的な逃避であると理解することもできるのではないか。
もっとも、これはあくまで筆者の考えであるから絶対的な真実性はむろんない。しかし重要なのは、このような「あくなき努力」が、果たして健常な凡人が今から行おうとしているような自発的努力と同質のものなのか、それともボーアの精神病性が外界に発現する際の媒介的症状に過ぎないのかという点である。もし後者ならば、この「ボーア的徹底」は、健常な凡人には決して真似などできない所業と言えるだろう。どちらであるかは、本書を読んで考えてみなければわからないのだが。
なお、すべての天才が精神病的であるなどとは勿論言えないし、精神病的天才のすべてが現実逃避的であるなどとも勿論言えない。むしろ、そのような天才の方が極少数派であると見立てる方が現実味を帯びているかもしれない。また、天才といっても学問人ばかりではない。経営、スポーツ、芸術、人間関係など、どんな土俵であれ秀でた人間はいる。あらゆる人間が何らかの才能を秘めているのである。ここで筆者がしているのは、あくまでリテラシーの話に過ぎないということをご理解願いたい。
本書に関して言いたいことは二つ、本書が我々に一つの大きな視点を与えてくれるということと、本書はシンプルにとても面白いということである。メインの内容はさることながら、養老孟司氏による解説も面白いので、骨の髄まで味わい深い愛書である。
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