短編小説『あの日々を僕は忘れてしまった』⑻
お父さんはいつも、たとえ早い日だって帰ってくるのは夜の7時くらいだ。遅い日になると10時とか。
だから僕は、本当は毎日お父さんにたくさん話したいことがあったけれど、疲れているお父さんが早く眠れるように、学校での話をしないように気をつけている。
普通のおうちでは帰ったらお父さんやお母さんがいて、何でも話を聞いてくれるしご飯も一緒に食べるんだと聞いて驚いた。
それを知ってからは前よりずっと寂しくってたまらなかったけれど、最近ではそんなに寂しくなくなったんだ。
最初の頃は1人で本を読んでいた。
小説が大好きで、最初の頃は『かいけつゾロリ』ばっかり読んでいたけれど、4年生になった頃から難しい本も読めるようになってきた。
物語を読んで夢中になっていれば、家に1人だって全然寂しくないんだ。
でもそのうちに、僕は段々と読んだ本について誰かに話したくなってきた。
クラスの皆んなはゲームをするのに忙しくて本なんて読まないから、どうしても僕は本のお話をすることができなかった。
そんなときに、僕は思いついたんだ。
また、コユキちゃんとお話をすればいいんだ、って。
コユキちゃんは僕の考えた女の子だから、いつだってどこにいたって僕が呼べば来てくれる。だから僕は寂しくなったり本の話がしたくなったら、コユキちゃんを呼んでいるんだ。
コユキちゃんが一緒にいてくれる限り、僕は寂しくなったりは絶対にしない。
コユキちゃんはいつも、笑顔でじっと僕の話を聞いてくれるから。
* * *
いつの間にか、コハルは半ばうちに居候しているような格好になっていた。
僕が目を覚ますと炊き立てのお米に味噌汁、卵焼きにお浸し、それと納豆が小さなテーブルに並んでいて、彼女は僕と一緒にそれを食べると仕事に出かける。
彼女がどんな場所でどんな風に働いているのかは、全く知らなかった。
個人的な場所だったはずのキッチンは、いつの間にか彼女との場所になっていた。
煙草を吸うのも、お酒を飲むのも、基本的にはキッチンでなされた。ときにはそこで僕たちの身体が交わることさえあった。
慣れてしまえばキッチンが勝手に使われることも、もう何とも思わなくなっていた。
鍋の中に入ったまま腐っていた味噌汁はもう姿を表す気配はなく、代わりにシンクの縁にはいつでも小さな灰皿が置かれるようになった。
コハルが仕事に出かけて、僕は書けもしない小説を書くためにパソコンの前に座っている。
開け放たれた窓から夏のむっとした風が部屋に舞い込んでは、カーテンを膨らませたり、反対に凹ませたりしている。
レース地のカーテンに青い海を連想しながら、そういえば僕は、こういう生活に憧れていたような気がする、とふとそんな気がした。
立ち上がり本棚を探す。
自身の著作は全て1箇所にまとめてあって、それは本棚の右下の隅にひっそりと隠れていた。
あれでもない、これでもないと下から本を1冊取り出してパラパラとめくっては別の本を手に取ってまたパラパラとめくる。
自作のタイトルを見てパッとその内容が出てこない自らの迂闊さには笑いを禁じ得なかった。
残り2冊となったところで、僕はようやく目当ての作品を見つけた。
それは記憶していた通り(というよりは虫の知らせという方が近いかもしれないが)僕の理想の人生を描いた作品だった。
「自らの人生を切り売りする作家」として盛大に売り出されていた僕の作品で唯一、それはまったく売れなかった本だった。
売れなかった理由は単純だ。
作品に描かれていたのは、ほとんどすべての人にとっては代わり映えのない、自らの人生だったのだ。
誰が好き好んで、自分の人生が描かれた小説を手にとりたいだろうか。
しかも描かれている方の人生は、三文芝居もいいところだ。本物の足元にも及ばない。
なぜならそれは、作者である僕自身が知らない世界の、想像すらできない世界のことを無理やりに想像して、美化して、理想像として描いたものだったから。
本を閉じて思わずため息をついた。
この作品からは過去のことはほとんど見えてこない。ただ分かったのは、やっぱり僕には母親がいなかったのではないか、ということだけだ。
最近はどんどん自分の記憶に自信が持てなくなっている。
それというのも、コユキという少女の存在から始まり、母親を嘯く女やコハルの言葉など、僕の知らない僕についての情報が溢れているからであった。
手にしている作品には母親が登場する。
この小説は、母親への愛を謳った作品だ。存在しない母への、である。
だとすればあの夢の人物は誰なのだろうか。
コユキの一件がある以上、僕は夢に出て来たあの女性が、真に僕の人生に登場していない人物だとはとてもじゃないが思えなかった。
コハルのいないキッチンで換気扇をつけ、煙草に火を灯す。
立ち上り始めた煙を見つめながら、僕は改めてその作品の表紙を眺め、撫でてみる。
確かな懐かしさを覚えているくせに、その中身を書いていたときの思いは少しも思い出せそうになかった。
(続く)
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