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短編小説『あの日々を僕は忘れてしまった』⑶



 朝の5時半から始める散歩が大好きだ。
 春と夏、それと秋と冬で太陽の光とか空気の匂いが違くて、その匂いをお腹いっぱいに吸い込むのが大好きだから。

 お父さんと散歩をして帰るとお母さんが甘い卵焼きを作って待っていてくれる。
 外の匂いも好きだったけど、卵焼きの匂いも同じくらい大好きなんだ。

 でも今日は、いつもの散歩から帰って卵焼きをお箸で茶碗まで運んできたところで、何かがおかしいような気持ちがすることに気がついた。
 お母さんもお父さんもいて、一緒にいつも通り、甘くて美味しい卵焼きを食べているというのに。

 何がおかしいんだろう?

「ねえねえ、お母さん」

 お母さんは返事をしてくれなかった。ぼうっと味噌汁を見つめている。

「ねえ、お父さん……?」

 お父さんもおんなじだ。お父さんはテレビを眺めている。

 さっきまで一緒に楽しくお喋りしていたはずなのに、ふたりはまるで時間が止まってしまったみたいに動かない。

「……ねえ、ここ、ウチじゃないよね?」

 おかしいって感じたことの正体がわかった瞬間に、僕はなんだか怖くなった。

 お父さんもお母さんも僕の声が聞こえていないみたいだ。お箸を持ったまま固まっている。
 救急車を呼ばなきゃ。でも番号が分からない。外で誰かに助けてもらおう。

 僕はさっきまで履いていた靴を履き直すと急いで玄関から飛び出した。

 飛び出してすぐに僕は、目の前に広がっているのがいつもの僕の家の近くの風景ではないことに気がついた。

 どこだろう。ここは。
 誰の家なんだろう。この家は。

 少し歩くとようやく見覚えのある家とか道路が見えてきて、確か2軒先には友達の……あれ、おかしい。友達の名前が出てこない。

 それに、あれ、もしかしてさっきの家はーー。

「待って!」

 すぐ目の前の十字路を、女の子が勢いよく走って行った。僕はそれを追わなくちゃいけない。そんな気がした。


* * *


 目が覚めると何かが書ける気がした。
 同時に、何か大事な夢を見ていたような気もする。

 ベッドを抜け出してベランダに出ると、既に夏の熱気が街を燻らせていた。遠くになればなる程に確実さを失っていく夏の景色は、確実ではないからこそ美しかった。

 純粋な形と色、その組み合わせとしてしか理解できない街の姿は、特に今高い場所から眺めていることもあいまって酷く懐かしいものに思えた。
 抱きしめて眠ることができたならばさぞ心地良いだろう。あるいは、それによって物語が生まれるかもしれない。

 眼下の街を歩く豆粒のような人々を見て、そういえば暫く、誰とも会っていないことを思い出す。
 必然として、ここ数日誰かと言葉を交わした記憶もなかった。

 1人でいる時間があまりにも長くなると、街を支配する物語から自分だけが削除されてしまったかのように思う。

 煙草に火を点けようとポケットから取り出した煙草を咥えて、しかし僕はそれを再びクシャクシャになった煙草のケースに戻した。

 これを吸ってしまったら、掴みかけている小説の書き方を掴み損ねてしまう。そんな気がしたのだ。

 部屋に戻ってパソコンを起動する。
 メールフォルダを開くと編集者からのメールが届いていたが、件名から察するに急を要するものではなさそうだった。

 姿勢を正して白紙のままの画面を開く。

 ーー書ける。


 という確信が、瞬間的に僕の全身を打った。

 今まで掴み損ねていた物語のイメージが目の前に立ち現れる。

 目にしてみれば、どうして今までこの物語を掴むことができていなかったのか、不思議になってしまうくらい鮮明なイメージがパソコンの画面の向こう側に現れる。

 あとはこのイメージを、形を損ねることなく、細部の色を間違えてしまわないように、1人の人物としてこの画面上に現前させればいい。
 それは、書けないことを悩むよりもずっと簡単なことだった。

 キーボードを撫でるようにして優しく置いた指が、緊張と興奮で汗ばんでいるのが分かる。
 早く文字を打たせてくれと、物語を編み上げたいのだと、10本の指があげる叫びは震えとなって僕の手から腕、腕から心臓へと滲んでいった。

 キーボードを打つありふれた感触ですら愛おしい。
 待ちに待った瞬間を、僕はタクシーの運転手が街を彷徨う人にそうするようにして迎えにいった。


* * *


「なにこの味噌汁?」

「さあ。起きたらそこにあったから、灰皿代わりにしてる」

 セックスを終えて、僕は女と2人並んで煙草を吸っていた。
 明かりを消した部屋は、カーテンのついていない窓から入る月光に照らされて青白い。

 青白さが昼の熱狂とのコントラストを生み出して、僕は再び情けない気持ちになった。

 女が顎で指し示した味噌汁は、いつか僕の寝ている間に勝手に作られていたものだった。吸い終えた煙草が何本も浮かんでいる。
 この鍋で作った料理はもう食べられないだろうと思う。

「作家先生って、本当に変わっているのね。それとも、そういう人の周りでは不思議なことがよく起こるの?」

 女は大して興味もなさそうにそう言うと、ナイキのマークみたいに煙を吐き出す。

「ビールか何か、ない?」

「冷蔵庫に」

「それじゃあ失礼して」

 女が僕の冷蔵庫を開いて中からビールを2本取り出した。

 取り出されたのは売り上げが悪かった頃に「夕日ビール」と揶揄されていたビールだ。暮れゆく時を耐え忍んだこのビールには今、朝が来ている。

 手渡されたビールのプルタブを引き上げると、女は自分のビールを僕のものにぶつけるようにして乾杯を強行した。

「最近、作品は書いてないの?」

「さあ」

「楽しみにしてるんだけど」

 この女が僕が小説家であると知っていることには気がついていたが、まさか僕の小説を読んでいるとは驚きで、妙な恥ずかしさを覚える。
 僕の作品と僕のセックスが比べられているような、比べられていたら嫌だなというような、そんな恥ずかしさだ。

「スランプになってるんでしょ?」

「……どうしてそう思う?」

「だって、あなたにはもう書ける人が残ってないもの」

「書ける人……?」

「怖いんでしょ? 自分が勝手に作品に登場させた人に、自分が何を言われるのかが……。だからあなたはどんどん独りになっていく。
 まるで、気に入らない登場人物を作品から消していくみたいに。言われてたじゃない、人生を切り売りする作家、って。

 わたし、あなたの作品は全部読んできたけれど、正にその通りだなって思った」

 パチッと煙草が音を立てて、燃えたままの灰が床に落ちていった。
 僕の吸っている煙草は巻紙の部分に何かを塗り込んでいるらしく、時々こうして不規則に燃えては落ちる。

 その灰の行く末を見届けて視線をあげると、髪の長い女はその長い髪を月の光に反射させながら僕を見つめていた。
 右手には半分ほどが燃えてしまった煙草。左手には夕日だったビール。

「わたし、コハルっていうの。もしわたしの言うことが図星だったなら、よかったらわたしのことを書いて。
 後腐れなくて、いいでしょう?」

 女は飲みかけのビールの中に煙草の吸殻を捨てると、脱いだままの形で捨て置かれていたリネンの薄いコートを羽織り、華奢な、バレエシューズのような靴を履いた。

「返事は明日の夜にでも聞かせて。
 お気に入りの本を置いて行くから。それを取りに来るために、もう一度来る」

 女が扉を開くと、夏とはいえ深夜だ。ジメジメとした湿気を孕んでいながらも、どこか寒々しさを感じさせる夜気が部屋の中に入ってくる。

「やっぱり、一枚余計に着てきて良かった」

 扉が閉まる間際に、女がそう呟いたのが聞こえた。



(続く)


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