短編小説『あの日々を僕は忘れてしまった』⑸
よく耳にしていたものの、高円寺、という駅で下車するのは初めてのことだった。
こういうオシャレな人が集まりそうな場所は苦手だ。
僕はいつも通りのジーンズにシャツという格好で持ち物は文庫本が1冊、アイディア帳にボールペンが1本、それに財布だけである。
とりあえず街へ来てみたものの、僕の目的が達成される可能性は低かった。
過去の友人に会うのが目的だった。名前も知らなければ、顔も知らない友人だ。
必然、相手が僕の存在に気がついてくれなければ、僕はその人とすれ違おうが気がつけないことになる。
しかしどれだけ可能性が低くても、僕には確かめたいことがあった。
コハルという女は、僕が関わってきた人々を自分の人生から削除していると言ってみせた。だが、僕にはどうしてもそれが真実には思えないのだ。
駅から外に出ると、アーケードが広がっていた。記憶が正しければこの街は古着屋が多い街だ。
そして、そんな街で目的の人物は、多く見かけられるという話だった。
街には2〜3メートルも歩けば左に古着屋、右に古着屋とやはり古着屋が多い。
古着屋といえば田舎の、人々が不要になった洋服を僅かな小銭に両替するお店しか知らない僕にとって、それらの古着屋はどれも新鮮なものに感じた。
人と人との記憶ではなく、ただ製造から時が経ったから「古着」となった洋服たち。
僕は今まで僕が思っていた古着が真に古着だったのかという疑問を感じずにはいられない。
歩いているうちにアーケードのどこか古びた様子に、故郷の街並みを思い出し始めていた。
故郷の街はこのアーケードほど賑わってはいなかったが、それでもその作り自体は似ているような気がした。一番の違いは人の多さというよりはシャッターが下りた店の多さというところだろうか。
懐かしさに浸りながら歩いているうちに、僕は思い出される諸々の風景のどこにも人の姿がないことに気がついた。
駅前のアーケード、そこから1本路地を入ったところにあるライブハウス。
ライブハウスがある路地とは逆方向に折れるとある百貨店の中には、大きな書店が入っていた。
書店の近くにはバンドをしていた頃にお世話になっていたスタジオ、その下にもライブハウスがあって、僕は確かそちらのライブハウスの方でよくライブをしていた。
更に駅を背に進むと坂道がある。
坂道を登ると途中に大きな神社がある。
もっと進むとショッピングモール、高校、ボーリング場。
ボーリング場を越えると市内一大きい公園があって、この公園には校外学習でよく訪れていた。
その公園に寄り添う形であったイタリアンレストランはお気に入りで、でもあのレストランは今ではもう閉店となったと聞いている。
高校の頃に一度だけ、格好つけて恋人とディナーに行ったことがある。
だけどその恋人のことも思い出せなかった。
僕はいくらでもこうやって思い出の場所を思い出すことができるというのに、そこにいた人々を思い出せない。
ディナーの時に座った席がどの辺りだったかということでさえ思い出せるのに、向かいに座っていた人物を思い出すことのできない。
そんなことが起こり得るのだろうか。
ぼうっと歩いているうちに、アーケードを抜け出していた。細い道をそのままに進む。
件の人物はこの辺りによく出没するのだと随分と昔のことだが聞いていた。
どうやら住んでいる家が近いらしい。今も住んでいるかは分からないが、彼もさっきのアーケードに故郷の街を重ね合わせていたのだろうか。
若者が多い。
当たり前だ。ここはファッションの街。僕のような冴えない小説家には不釣り合いな場所であることは疑いようがない。
すれ違う人々の多くから、強い香水の匂いが感じ取れた。また古着屋に特有なのか、甘い熟した果実のような香りもよく人々に纏わりついている。
この匂いだけは故郷とはまるで違うな。
次の瞬間に僕はすれ違った男の肩を掴んでいた。
「……え、なんすか?」
肩を掴まれた男が驚いた様子で僕を見ている。
熟した果実の香りの中でただ1人、この男からは故郷の、澄んだ森と山々の香りが漂っていたのだ。
瞬間的に掴んでしまってから、僕は男の顔に見覚えがないことに気がつく。しかしそれも当たり前だ。僕は誰の顔も覚えていない。
「……すみません、人違いでした」
たっぷり数秒の間男を見つめた後、僕はそう言うのが精一杯だった。
見つめあった数秒のうちに男がもしかしたら僕が同郷の人間であると気がつくかもしれない。そんな儚い思いを他所に、男はただただ困惑していた。
よく見ると男はギターを背負っていて、そのことに気がついた僕は肩を掴んでいた手を離しながらも、僅かな可能性を捨てることができない。
ただ自分を見つめる僕に、男は困惑しながらも会釈をして歩き始めようとした。
「あれ、もしかしてーー」
男が背を向けて歩き出そうとした瞬間だった。
何かを思い出したらしい男が動きを止めて、再び僕を正面から見る。すべてがスローモーションに見えた。
僕の過去が取り戻せるかもしれない。掌に汗が滲むのが分かった。
「小説家の方、ですか……?」
大きな溜め息を吐いてしまったことは、仕方のないことだったと思う。
「ええ、そうです」
なんとかそう返したが、僕は落胆の色を隠すことができなかった。
もうこの街で探し求めている人物と出会うことはできない。そんな確信が僕の心に薄い膜を貼っていった。
「ここら辺住んでるんですか?! 俺、ずっとファンで、デビューの頃から読んでます」
握手を求めているのだろう。差し出された手を握ってやると、男は大袈裟ではなかろうかとこちらが心配になる勢いで喜んでいる。
悪い気はしなかったが、往来でこれをされるのは少々恥ずかしかった。
「俺、あの子に惚れたんですよ。デビュー作のコユキちゃん! 何か、主人公の目線で見てたら可愛いって思う気持ちが……」
「コユキ……?」
「あれ、名前、コユキでしたよね……?
そういえばコユキちゃんって、同じ名前でモデルになった人がいるって噂は本当なんですか?」
心臓が早鐘を打っていた。
夢で見た少女。あの少女を僕は確かに小学校時代の同級生であると認識していた。しかし、もしこの男が言っていることが本当ならば……。
幾つもの考えが、脳裏を過ぎっては消えていく。どれもこれも、確信を持つまでにはいたらなかった。
当たり前だ。僕は自作のことですら、覚えていないのだから。
「ごめん、その話はまたいつか。ありがとう、本、読んでくれて」
言うが早いか、僕は駅を目指して一目散に駆け出していた。
家に帰って確かめねばならない。もしコユキという少女が僕の作品の登場人物だとしたらーー。
僕は自分が自身の作品の登場人物に、実在の人間の名前をつけるとは思えなかった。
そしてその行為は、昨夜あの女から聞いた「僕」という人間に受ける印象ともズレているように思えた。
数年ぶりに走ったからか、脇腹がすぐに痛くなってきた。しかし走らずにはいられない。一刻も早く、真相を知りたかった。
そもそも自身のデビュー作に、コユキという人物が登場していた覚えがないのだ。主人公が、その人物に好意を寄せているという事実も。
走るうちに頭が痛くなってきた。しかし駅はもう目と鼻の先にある。
訳が分からない。何が真実なのか。たとえ作品を見たとしても、今の僕に判断ができるのかさ分からなかった。
* * *
参観日、という言葉を聞くたびに、僕は嫌な気持ちになっていた。
うちはお父さんしかいなくて、お父さんは日中は必ず仕事に行っているから誰にも来てもらうことができない。
それだけでも悲しいのに、今日の授業ではお父さんやお母さんに手紙を書いて渡さなくちゃいけないらしい。
授業が始まってからずっと、クラスの皆んなのお父さんやお母さんが教室の後ろでニコニコしている。
クラスの皆んなも、お父さんやお母さんが来てくれて嬉しいのかいつもよりソワソワしていた。
お父さんに手紙を書くのは、いつも口でありがとう、って言えていなかったからいいんだけど、どうして今渡すことにしたんだろう。
クラスの他の皆んなはお父さんかお母さんが来ているのかな。
先生は明るい声で「感謝の気持ちを伝えましょう」って言っている。
授業の前半は国語で、僕の家とは違ったお父さんもお母さんもいる、普通の家の親子の話だった。
それだけで嫌な気分なのに、と僕は先生を睨んでみるけれど、きっと先生は僕のことなんて気にしていない。
先生は親が来ている生徒の方が大切なんだ。
昨日テレビでやっているのを観たから僕には分かる。
先生は僕たち生徒の親から怒られるのが怖くて、だから今日みたいな日は僕たちのことじゃなくて後ろに並んでいる大人のことを見ているんだって。
書き終わった手紙を机の中にしまって、僕はやることもないから黒板を眺めていた。
今は教室の真ん中あたりに座っているから、こうしていると後ろの大人たちが目に入らなくて済むから。
でも気にしないようにしようとすればするほど、僕はなんだか悲しくなってきて、今にも涙が溢れてしまいそうだった。
僕と同じでお父さんもお母さんも来てない人がいたらよかったのにな。
隣の席のミユキちゃんはお母さんが来ているって言ってたけど、もしミユキちゃんがミユキちゃんじゃなくて、僕と同じで誰も観に来てなかったら何を話してただろう。
僕はふとそんなことを考えてみた。
そうしたらきっと今だって、2人で「なんか嫌だね」って話せていたに違いない。
こうして手紙を書き終わったからってぼうっとしている必要なんてなかったんだ。
ミユキちゃん、って名前のままだと、どうしても想像の中だってミユキちゃんのお母さんが教室にいるから、僕はコユキちゃん、って子が隣にいることにして想像することにした。
(続く)
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