小説で「伝える」ってどういうことだろう。〜『あの日々を僕は忘れてしまった』のあとがきに代えて〜
こんばんは。
東京アラートなんてものが発令されていますがいかがお過ごしでしょうか。僕はいまだに何も変わらず、家にこもって生活しています。
さて本日は『あの日々を僕は忘れてしまった』の「あとがき」を書いていきたいと思います。
初期衝動から創作論にいたるまで書いていこうと思いますので、よかったらお付き合いください。
1.【初期衝動】自粛期間に考えたストレスと発散
そもそも何故『あの日々を僕は忘れてしまった』という作品を書こうと思ったのか。
一言でいえばそれは、自粛期間中にストレスが溜まり、その発散として「お酒」に頼ってしまう自分に気がついたからです。
20歳を過ぎてからの3年間しかまだ付き合いのないお酒に何故自分は頼りきりなのか。それを疑問に感じました。
作中では以下のような文章でそのことが表されています。
小説を書くことで何とか保たれていた僕の世界が、今や煙草とお酒、それにセックスで保たれるようになった。
そのことで小説が書けないというのならもしかすると、僕の小説を書くことへの動機は現実からの逃避にあったのだろうか。
(齋藤迅『あの日bを僕は忘れてしまった』⑺ より)
周囲では仕事が始まって出社=外に出ているかつての同級生たちが多くいて、また感染症のことなどお構いなしに外で遊び歩いている人もいる。
出社することは恐ろしくもあり、また大変なことでもありますし、遊び歩くなんてことは正直論外でやりたくもない。
ただそんな周囲と家に籠もりっきりで何をしていいのか先の見えない自分を比べて、僕はどんどんストレスを溜め込んでいきました。
そうして生まれたのが今作です。
2.【創作論】伝わらなかったモチーフたち
さて、そんな今回の作品について少々創作論的なことをお話しさせていただこうかと思います。今回実は、もともと5話程度で終わるプロットしか作っていませんでした。
それがいつの間にやら11話にもなってしまい、その上文字数はなんと約3万文字!!
まあ久々に書きましたね、自分でも驚いています。
初期衝動は上述した通り「ストレス発散の方法とその変化」についての疑問です。
自分はもっと上手く生きてきたはずだ、生きてきたはずなのになんてことだ。
初期衝動=書きたいことがハッキリしていたからこそ今回、最低限のプロットからこれだけの尺の物語が生まれたのだろうと思っています。
ただしかし、プロットの甘さは明らかに作品に反映されてしまっていました。
以下が読み直して「これ、多分伝わってないよね」と自身で思った箇所です。
・キッチンへの思い入れについて
・夢に出てきた「お母さん」は結局誰だったのか
・語り手「僕」がいつの間にか負っていた傷について
・夢の中で動かなくなった両親
・コユキは結局存在したのか
etc...
分かりやすいところでいくとこんなところでしょうか。
もちろんこの全てに意味があります。意味があるだけに僕は改めて作品を通しで読み、伝えられなかったであろう事実に凹みました。
書いているときにはきちんと伝えているつもりなんですけどね…。
3.【創作論】誰もが自由に読めるということ
じゃあそもそも「伝わった」ってどういうことでしょう?
というか、全部伝わる必要ってあるんでしょうか?
これは多くの「小説の書き方」の書籍に書いてあることですが、伝えたいことを伝えるだけならば小説は必要ありません。
「伝える」ということだけにフォーカスするならば論文を書けばいい。それか今の時代、SNSで十分に事足ります。
そんな中、どうして小説という方法で何かを伝えようと、或いは描こうとするのか。
その1つの答えを僕は多様性を認めるためであると考えています。
例えば僕が今回書いた『あの日々を僕は忘れてしまった』という作品について考えてみましょう。
僕は今回、敢えて過去のこと、語り手「僕」が見る夢のことをぼかして書いていました(そしてボカし過ぎてちょっとだけ失敗しました)。
ただ反面、これをどこまで書くのが正解だったのか。書き終えて全体を俯瞰できる今になってもそれは、一言で言うのが難しい問題です。
多様性を認める、というのは小説に描く以上、ある問題が僕にとって正しいことだったとしても、別人にとっては間違いである可能性。或いはある僕が幸せなことと思った出来事を、誰かが不幸せなことと思うという可能性があることを認めなければいけない。
言い換えるのであれば、小説は誰もが自由に読めるものでなければならないと、そう考えています。
その観点からいえば、僕の今作はだいぶ読み方に幅が認められます。
既に書いた通り、作者である僕自身が作品に与えた方向性はもちろん存在しますが、その方向を決定づけるための確たる証拠が少ないのが現状です。
ということは、この小説はすべての読者が、書かれたすべてのことから酷く自由にその読みを決定づけられる作品です。
もう少し作者として読みの方向性を決定づけなければならなかった。
そういう思いもありますが、ここまで書いたことから敢えて初読とは違う読み方を考えてみよう、というのも楽しいかもしれません。
少なくとも作者である僕としては2つの読み方ができるように、という視点から今作を書いてきました。
書き手と読み手がいると言う観点から、小説も1つのコミュニケーションの形である以上、「伝え」ようとする気持ちは大切です。
ただ小説の場合の「伝わる」ということは、多分読み手が「こういうことだよね」と作者の意図を別として、納得することなのではないでしょうか。
(これは今作を擁護するための逃げではありません笑)
4.次回作は「エモい」を1つのテーマにします
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
次回作も既にプロットを作り始めており、早ければ明後日(6月9日)にも新作の第1話を公開できると思います。
自作はズバリ、章題にもある「エモい」をキーワードに書いていきます。
何故今更「エモい」をキーワードにするのかといえば、小説は拡散されにくいコンテンツだからです。
イラストや漫画などと違って、ある程度の尺のある小説はSNS上で共有するのには向いていません。
でも、例えば140字小説などというものが万単位でリツイートされていることもある。また1ツイート分の読書感想文が同じように多くの人に共有されている。
つまり、小説もSNS上でまったく共有されないわけではないのです。
ということで、次回は1話ごとに「エモい文章」を入れることを念頭に、執筆を進めてみようかと思います。
バズることがすべてとは一切思いませんが、今のままでは多くの人に読んでもらえないことも事実。だからまずは小説を多くの人に読んでもらうために何ができるのか、という工夫も凝らしつ次作は書いていきます!
エモい文章を入れることで、その文章を共有してもらう。
そのことによって次作は今までよりも多くの人々のもとに届く作品になればいいなと思っています。
ちなみに次作は今作よりもずっと「齋藤迅」のことを書いていきます。
そういった観点からも是非楽しみにしていただければと思いますので、また次回もよろしくお願いします!
それでは最後までお付き合いいただきありがとうございました!
宜しければ感想など、お待ちしております!
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