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短編小説『あの日々を僕は忘れてしまった』最終話



 いつの間にか居候していたコハルは、始まった時と同様にいつの間にか僕の家を訪れることが少なくなっていた。
 コハルは小説に書くことこそが僕の愛なのだと、そう信じているのかもしれない。

 毎日コハルがご飯を作ってくれて、洗濯をしてくれて、部屋の掃除をしてくれてーー。

 そういう状態にいつしか慣れてしまった僕は、もうほとんどご飯を食べることもなければ毎日同じ服を着て、ゴミの散乱した部屋でそれでもパソコンにかじりついていた。

 一文字一文字、命を削る思いで書いた原稿はそれでも一時間も経てばゴミになる。


 満足のいくものが書ける気配はなかった。


 コハルはお世辞にも清潔感があるとはいえない僕を見てとうとう嫌気がさしたのか、間もなく本当に姿を表さなくなった。
 彼女がいなくなって初めて気がついたが、僕は彼女と連絡先の交換さえしていなかった。


 どうすれば良かったのだろうかと、毎日のように考えてる。
 考えているけれどそれでも僕には、何の妙案も思いつきはしなかった。ただ、こうなるしかなかったのだろうという無力感が日に日に大きく育っていく。

 いっそ、彼女のことを小説に書こうか。


 何度も何度もそう考えたけれどしかし、それをしてしまったらいよいよ二度と、コハルとは会えなくなってしまうだろうという確信があった。
 彼女は僕が小説を書くことが、描かれた人との決別を意味すると考えている。そういう点でその確信は間違えてはいないようにも思えた。


 夏が終わろうとしているのが、ベランダから見える街の様子で分かった。
 遠くを見れば揺蕩うようだった街の影が、いつの間にか確実な像を結んでいる。
 半袖のまま煙草を吸っていると、夜には肌寒さを覚えるようになった。

 もう少しすれば街路樹は生命力に満ちた緑色から赤や黄色へとその葉を変貌させることだろう。


 もう少しでコハルが家に来なくなってから2ヶ月が経つ。
 もうあの日々は僕にとって幻のようなものになりつつあった。




 随分と担当の編集者さんに待ってもらった書き下ろしの新作は、文字通り飛ぶように売れた。
 発売からあまり日を待たないうちに、映画化の話もきているとの連絡もある。何もかもがうまくいっている。表面上はそのように思えた。

 部屋があんまり汚いと生活するのも大変だから、ようやく僕は部屋の掃除を始めた。

 コンビニの弁当の残骸や缶ビールの残骸がたくさんあって、異臭も放ち始めていたから窓を開けたままで1週間ほど生活した。
 マンションの上階に位置するこの部屋には、窓を開けていても虫の声は届かない。そのおかげで僕は秋の訪れに暫くの間気がつくことはなかった。

 部屋の掃除を進めるうちに、女もののコートが出てきた。薄手のもので、この季節に羽織るには丁度いいものだろうと思った。

 しかしもう何ヶ月もの間、僕の家には女が来ていた記憶はない。
 一体自分はいつから掃除をしていなかったのかと思わず苦笑を浮かべながら、僕はそのコートもコンビニの弁当や缶ビールと一緒にゴミ袋へ放り込んだ。

 放り込んだその瞬間、なんだか懐かしい匂いがした気がして、僕は思わずゴミ袋からコートを取り出し直接匂いを嗅いだ。

 誰かがこの場面を見ていたら犯罪だと思われないか。今にもこのコートの持ち主が現れるのではないか。

 そんな恐ろしさが瞬間的に僕の寂しい心を襲ったが、しかし勿論誰かが訪れることはない。

 コートからは確かに懐かしい匂いがした。
 しかしそれがなんの匂いなのか、いくら考えてみても全く思い出せない。
 それは夏の夜を思わせる匂いだった。そして同時に、うっすらと煙草の匂いも混じっている。

 コートのポケットに片っ端から手を突っ込んで何かこのコートの持ち主の情報がないかを必死で探す。
 しかし中から出てきたのは煙草の空き箱と、黒い百円ライターだけだ。

 諦めきれずに部屋中を探した。他にもこのコートの持ち主に関する何かが落ちているんじゃないか。僕の怠惰な生活の痕跡の間に、大事だったはずのものが残っているんじゃないか。

 しかし部屋が引っ越してきた当初の綺麗な状態を思い出しても、何も見つかることはなかった。


 コートから取り出したライターを持って、換気扇のスイッチを入れる。

 そういえば、最後にいつ掃除したのかも覚えていない換気扇は、まだギリギリ綺麗だった。でももうあと数ヶ月もすれば、また煙草のヤニと油とで黒く汚くなっていくのだろう。


 そんな哀れな運命を背負った換気扇を眺めながら、誰かのライターで煙草に火を点ける。
 冷蔵庫からビールを取り出してプルタブを引き上げると、夏の頃を思い出させるような快い音が、綺麗に掃除された分物寂しい部屋に響いた。


 ビールと煙草を交互に摂取しながら、コートのことを考える。
 だけど、こういう時自分には何も思い出せないことくらいもう十分に分かっていた。


「部屋も綺麗になったし、またセフレを探すかな」

 次はどんな小説を書こうか。

 そんなことと同時に考えていたことがふと口をついて出た。前のセフレがどんな女だったか、どうやって出会ったのかすら忘れてしまっていたから、新しく別の女を探さないといけない。

 一番簡単なのは飲み屋に行くことだろうなどと考えながら、次は飲み屋で出会った2人の男女の恋模様を書きたいと思う。
 恋愛モノは、自分がほとんど恋愛なんてしてこなかったから書くのは苦手だ。

 もうすぐ僕も30歳になる。そう考えると、そろそろ本気の恋の1つや2つ、経験しておいて損はないだろうと思った。
 同棲とか、誰かと共に生活することもいい経験になるかもしれない。

 飲み終えたビールの空き缶を潰してシンクにひとまず置いておく。
 酒は靄がかかった記憶の感情だけを的確に抽出して、小説を書くためのエネルギーをくれるけれど、反面酷く人恋しくさせるから注意が必要だった。



 今日もまだセフレの1人もいないというのに、強烈な人恋しさが突然に僕を支配し始める。

 もう電車もない時間だから、今日は何もかも諦めなければいけなかった。

 だから僕は仕方なしに誰かのコートを鼻の頭まで被って、この前書いたばかりの、僕の人生を切り貼りした小説を抱いたままベッドに丸くなるのだった。



(了)



※明日か明後日(6月6日か7日)に「あとがき」を公開します。
 本作執筆に至った経緯と、小説としての反省点を書いていく予定です。
 よろしければ本作の解説書として、「あとがき」もお読みください。

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