短編小説『あの日々を僕は忘れてしまった』⑷
コユキちゃんは名前の通り、雪の妖精みたいな女の子だった。
肩くらいまでの長さの髪とまん丸い黒目以外の全部が真っ白。着ているワンピースまで真っ白で、コユキちゃんの周りだけが夏でも冬みたいに見える。
お母さんもお父さんも動かなくなっちゃって、周りはみんな知らない景色で、そんな街の中でコユキちゃんだけが僕の知っている人だ。
走り去ろうとしたコユキちゃんになんとか追いつけた時、僕は安心して少し泣いてしまっていた。
「学校の皆んなはどうしてるのかな」
「学校の皆んなって?」
僕がそう聞いたらコユキちゃんは首を傾げながら振り向いた。
コユキちゃんの手に引かれた僕は、家の周りと全然知らない街とが白と黒の粘土を一緒に混ぜたときみたいに混ざった街を歩いている。
太陽の光が暑くて、僕は汗をたくさん掻いていたけれど、コユキちゃんはやっぱり涼しそうだった。
コユキちゃんの周りはやっぱり冬なのかな。握っている手もなんだか冷んやりしている。
「皆んなは皆んなだよ。クラスの皆んなとか、先生とか」
コユキちゃんは僕の声が聞こえていないのか、黙ったまま歩き続ける。僕はどうしていいのか分からなくて、仕方なくコユキちゃんの手に引かれるまま歩く。
「クラスの皆んなって、誰がいたっけ?」
「何言ってるんだよ、コユキちゃん。皆んなっていえば……」
皆んなっていえば誰だろう。
僕はいつも誰と遊んでいたんだっけ。でもだって、いつもドッヂボールをしていたじゃないか。
学校から帰って、宿題をやって、それから僕はいつも皆んなとドッヂボールをしていたんだ。
「そうだ、いつも学校が終わってからドッヂボールをしてる皆んなだよ」
「わたし、ドッヂボールなんてしたことない」
コユキちゃんがそう言った。
ドキッとして、僕はコユキちゃんの手を少しだけ強く握ってしまう。
いつも僕たちはコユキちゃんを仲間外れにしてしまっていたのか。
そのことに気がつくと、どうしてコユキちゃんを皆んなが誘わなかったのか不思議に思う。
「ごめん」
「ううん、大丈夫」
「コユキちゃんはいつも学校が終わったら何してるの?」
コユキちゃんはまた黙った。
黙って少しだけ空の方を見て、立ち止まった。
「早く帰らないとお姉ちゃんに怒られるの」
「お姉ちゃん、怖いの?」
「とっても。怒ると、いつもわたしの髪を引っ張って、壁に叩きつけるの」
「そんなのよくないよ!」
僕の声は誰もいない街に思ったより響かなかった。
ただ僕とコユキちゃんにしか聞こえないくらいの、すごく小さな声だった。
「コユキちゃんはそれでいいの?」
僕がそう聞くと、コユキちゃんは急に僕の手を離した。
振り返った表紙に、コユキちゃんの黒い髪が少しだけコユキちゃんから遠いところに揺れる。
でも髪はすぐにブランコみたいにしてコユキちゃんの顔の近くに戻った。
「でも、どうにもならなかったでしょ?」
* * *
夢だと思っていたそれが夢ではないと気がついた時、どうしてそんなことを自分が忘れられていたのか、まずはそのことが不思議でならなかった。
コユキという人物は確かに僕の小学生時代の同級生で、そして彼女こそが僕が小説家になろうと思ったきっかけを作った人物だった。
彼女は小説が大好きで、いつも図書館にこもっているような女の子だった。だから、彼女の肌は夏でも青白かった。
ベッドから抜け出し、テーブルの上に置きっ放しだったコップを手に取って水道水を注ぐ。
一息にその水を飲み干して初めて、僕は自分が汗を掻いていることに気がついた。
多分小学生の頃一番仲の良かった友人である彼女とは、中学進学とともに離れ離れになった。
彼女のお姉さんがああいう人だったことは、恐らく僕以外の同級生は知らなかったのではないか。
何故なら彼女と僕が仲が良かったのは、そういう秘密を共有していたということに起因しているからだ。
そしてその秘密に関わってしまったことが、彼女の辛い現実を知ってしまったことが、僕を小説執筆に駆り立てた。
あの頃の僕は、お金を稼ぐこともそうだったが、何かを成し遂げて再び彼女の目に触れたかった。
多くの人に認めてもらいたかったのでも、ましてや有名になりたかったわけでもない。
有名になって、彼女に見つけて欲しかった。彼女の味方がここにいるのだと、そう示したかったのだ。
どうして、彼女の愛していた小説を書くようになったというのに、僕はそのことを忘れてしまっていたのだろう。
そうして僕はまた、コユキちゃんの正体を思い出すことでコハルという、昨夜のあの女の正体にも予想がつき始めていた。
女が置いていったお気に入りの本を手に取る。思った通り、僕のよく知る小説だった。
それは僕が初めて読んだ小説である。
あの女は本当に今夜、この家に再びやって来るのだろうか。
昨夜の彼女の言葉が脳裏を過ぎる。
あの女が何を伝えようとしていたのか。そしてそれが伝わることを恐らく女が諦めていたであろうことは、考えるだけでも悲しいことだった。
換気扇のスイッチを入れる。
煙草に火を点けて煙を肺一杯に吸い込みながら、夢に出てきたコユキに似た、母親ではない何者かの姿を思い浮かべた。
今日も小説を書くことはできないだろう。
その思いがほとんど完成された事実として、僕の目の前に立ち塞がった。
目的を思い出した今、書くという行為はより難しいことになってしまった。
ポケットのスマートフォンを取り出して時刻を確認すると、夜が訪れるまではまだまだ時間がかかりそうだった。
スマートフォンを握り締めたままの形で、僕はあることを逡巡する。
グラスにもう一度、水を注いだ。
並々と注いで、それをまた一息に飲み干す。飲み逃した水が首元を伝ってパジャマにしているTシャツの内側へと滑り込んでいく。
冷たさが心地良く、また心地良いだけに自らの身体が急に心許ないものに思えてきた。
髪を掻き上げてシンクで顔を洗うと、僕はよれたTシャツを脱ぎ捨てた。
僕はあの女にまた会うために、夏の暑さに霞む街へと出かけなければならなかった。
(続く)
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