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国を思うということ

 国とは何でしょう?国家とは何でしょう? 私たちはそれを「政治的共同体」と固く捉え、遠い存在であり、また「国を思う」「国を守る」ということをしばしば右翼的思考と捉えてしまう人も多いようです。 
 しかしそうでしょうか?それはおかしいことなのでしょうか? 

 日本人は昔から自分の故郷のことを「国」と言ってきました。「お国自慢」「国に帰る」「国に錦を飾る」などがそうですよね。
 『国』という字を見てください。「玉」とはどういう意味でしょうか?「玉」とは、美しいもの・大切にすべきものです。それを大事に周りから囲っているのが、『国』という字になります。 
 国、それは私たちの故郷のことであり、土地・文化・家族・財産といった大切にすべきものそのものではないかと私は思うのです。
 私たちが、そのために何をすべきで何ができるのかを考えること、それは必至のことではないでしょうか? (世界の様々な国に行きましたが、そもそも、「国を思う」「国を守る」とちょっと口にしただけで引かれる経験をするのは、まあ日本くらいなものです・・・)

 私たち日本人は、古来から国を思う意識が特に強い民族であります。知的好奇心に長けたことも重なり、外国からの文化・技術の流入に対して、自国のそれを失い依存するのではなく、うまく取り入れ、逆に世界一のものにしてしまうのが、日本。
 そして幾度もの外国からの襲来に対しても乗り越えてきました。これは、国を思う意識が強く、国のために何をすべきで何ができるのかを考え行動できた結果によるものだと思います。

 時代はグローバル化の一途を辿っています。通信の発達や社会機能の多様化により、世の中が地球規模になっていくことは至極当然のことです。
 そんな中でこそ、「国」という意識を私たちは忘れてはいけないと思うのです。
 故郷を忘れ、私たちが日本人ではなく世界市民として行動し、国のために何をすべきで何ができるかを考えなくなった時、果たして私たちが本当に求める世の中になるのか。
 グローバル主義、それはある意味で弱肉強食主義といえます。仮に日本の生産力が世界一で日本の軍事力も世界一であれば話は別かもしれませんが、国のことを考えず、国境を取り払って、安易に資源・資本・需要を世界に流動させてしまっては、これらは強い国々・経済圏・文化圏に奪われてしまいます。
 資源・資本・需要を奪われるということは植民地になるということです。

 大事なのは、世界の潮流に依存したり流行の地球市民として行動するのではなく、世界の文化・技術を国のため、私たちの住む地域のために役立てようと考え行動していく必要があります。
 これには「国を思うということ」が欠かせません。

 改めて、国、それは私たちの故郷のことであり、土地・文化・家族・財産といった大切にすべきものです。それを思う・守る。どうぞ口にすることを躊躇わないでください。
「国を思うということ」を忘れた瞬間、私たちはアイデンティティを失い、故郷を失う。
 それは、私たちが本来望んでいる生き方を奪われかねないということなのです。

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