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100 江ノ島 さようならバッド・マン

※残酷な描写があります。


 

 車は一直線の道を速度を上げて進んだ。道の脇にずっと続く松並木が黒い壁のように連なって見える。路上に私たち以外の姿はなかった。物事はすべて止まっているようにも思えたが、松の枝が風に靡いているところを見ると、それはなさそうだった。虫の声も聞こえた。ただ無いのは人の存在だけだった。
 小太りの運転手は目的地まで口をきかなかった。というよりは口をきけなかったと言った方が良いのかもしれない。島に着き、そこを渡る大きな橋の前に車を止めて私を振り返った際、彼の表情は一切消えていた。無表情というものでは無い。そこにあるはずの一切の顔の部品、つまり、眉や、目や鼻や、唇や耳がすべて切り取られていたのだ。切り取られた顔の部品の後には一度切り裂かれた傷が治った後のように、肉の引きつりだけが残っていた。 
 
 彼の動作はとても静かだった。静かに私の方に振り返り、空虚な穴で静かに私を見つめた。私はタクシーを降りて、運転席から彼を下ろした。彼は元の体型より一回りしぼんでいたので、容易に下ろすことができた。私は銃を取り出し、彼の後頭部に銃口をつけ、橋の方へ歩くように促した。彼は手も上げずに静かに大きな橋の歩道を歩いた。満天の星空が醸しだすしんしんとした囁きと、波が橋を撫でる音と、それが砕ける音しかあたりには響かなかった。誰も私たちを見ていなかったし、それを気にする必要もなかった。歩きながら、私と彼の間にはどこか親密な空気が流れていた。彼はもしかしたら私に何かを伝えたかったのかもしれなかった。たとえば、それは、遺伝に関することや、奇妙な夏の出来事など。
 でもそれは果たされることは無いことを私は知っている。くりかえし、永遠に。
 
 橋を三分の一ほど行ったところで、男を海の方へ向き直らせて立たせた。私は少し後ずさり、しかるべき距離を置いてから、撃鉄を上げ、引き金を引いてそれを下ろした。渇いた薄っぺらい音がして、ほとんど同時に彼の頭が痙攣したように弾けて、体が音もなく地面へと落ちた。私はしばらくしてから彼に近付き、私の射撃が正確に彼の後頭部に命中していることを確かめた。地面には色々なものが散らばっていたので、私はまず、それらを海に蹴落とした。次に念のため、胴体に一発打ち込んでから、遺体を持ち上げ、欄干の上から海へと放った。男の体は生きている時の感触よりも死んで純粋な物体になってしまった時の方が、現実的な重みがあった。胴体から流れ出ている血が私の手に触れたが、それには確かな温かみがあった。
 
 遺体は海に落とされた後、海面を漂っていたが、しばらくすると暗い海の底から大きな口が現れ、それを飲み込んだ。橋の幅ほどはある大きな胴体を持った蛇のようなものだった。それは、男を飲み込んだ後、またシュルシュルと不快な音を立てて海の底に消えていった。私はその生物が消え去った後も暫く海を見ていた。満天の星空と比べて暗い海はどこまでも底知れず、阿片中毒者の目のようにどんよりとして憂鬱な具合だった。
 一時の難聴が去り、耳元に静かな波音が戻ってくると、私は島へと歩き出した。島には心当たりがあった。一度前に訪れたことがあるのだ。江ノ島だ。
 
 私は島に着くと緑色の鳥居を潜り、坂を上った。私の知っている江ノ島とは明らかに違う様子だった。道はしっかりとした石造りで、坂の両脇、参道には店がひしめき合って並んでいる。今にも朽ちそうな古ぼけた東屋のようなものではなく、しっかりとした家屋の顔をしていた。私は誰もいない坂道を静かに進んでいった。本当に誰もいなかった。世界の裏側から生きている世界を見ているような感覚だった。でも、それはおそらく違うだろう。
 私のいた箱根とこの江ノ島はさほど遠くはない。私は黒い塔に入り、奇妙な廃屋を抜け、ここに辿り着いたが、ここは本当の場所なのだろうか。しかし、私の中にはちらりともそこにもどって見届けようといった気持ちは現れなかった。それは、おそらく、位置や時間と関係ないことなのだ。此処は私の場所ではない。私は闖入者だが、今は誰も其の事に気づかない確信があった。輝く星たちだけが私を見、囁き合っていた。

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