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紀行文|家事と都市のあいだで─インド・ムンバイから─

 家には帰って寝るだけ。そんな概念が変わりつつある現在、家に何を求めて、都市に何を求めるだろう。仕事はオンラインで家のデスクから。食事はデリバリー、洗濯は近くのランドリーで、入浴は銭湯へ。従来の「仕事は外、家事は内で」そんな生活が、ときには反転、または融解していく時代。家事と都市のあいだについて考えてみたい。

住まいの原風景

 炉がシステムキッチンに、ほうきが掃除機に、洗濯板が洗濯機に、縫い針がミシンになったように、家事が楽に短時間で行えるようテクノロジーは進化してきた。
 しかし ”洗濯物を干す” 行為は、紀元前から大きくは変わらない。ある程度普及した乾燥機は、毎日使うには何かためらいがある。それは、太陽というエネルギーがありながら電気を使用して乾燥機をまわす行為に、エネルギーの矛盾を感じるからだろう。すべての家事が家電に置き換わる時代がきたとしても、洗う技術がどんなに発達しても、太陽がなくならない限り、大気汚染が深刻にならない限り、外で衣類を乾燥させる行為はこの先も変わらないかもしれない。

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「土楼」中国、福建省龙湖村  2018年9月筆者撮影

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「ボウサの集合住宅」ポルトガル、 ポルト 2018年9月筆者撮影

 私たちが知らない街を歩いていたとしても、洗濯物が干してあると、そこがなんとなく「家」だと分かる。そして、いまそこに人が「住んでいる」ことも分かる。何人家族か、子供がいるか、その人の趣味まで見える。洗濯物が干される風景は、住まいの原風景と言えるだろう。しかし、そんな概念が覆される風景を見た。

都市の洗濯場 ”dhobi ghat”

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「ドービー・ガート俯瞰」 ハーフカメラにて筆者撮影

 昨年の秋、インド ムンバイにある”dhobi ghat(ドービー・ガート)”という洗濯場を訪れた。dhobi(洗濯人)が働く洗濯場の文化はインド全土にあるが、ムンバイのドービー・ガートは1890年に建設された世界最大の規模を誇る公共洗濯場である。ホテルや病院、納品前の衣類など大量に発注されるものに加えて、ムンバイに住む家庭も日常的にこのサービスを利用している。

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左:「ドービー・ガート」2012年 (Kamy Shah, MUMBAI Face of Today’s India, Magnate Publishing House, 2012, p90) 
右:「ドービー・ガート」2019年10月筆者撮影

 同じ場所から撮った過去の写真と比較してみると、地面に広がる洗濯場に覆いかぶさるように、洗濯人の住居や干し場が増築されている。現在も人口が増え続けるムンバイで、洗濯人も増えているのだろう。干場には規則正しくロープが張られたうえに、似た形の服が隙間なく干され、それらは色移りしないように同じ色でまとめられている。そのような洗濯の合理に乗っ取ることで現れる風景は、雑然としていながらも、どこか美しい。個人の趣味や貧富の差など、所有者の背景が如実に現れるはずの衣類が一堂に集められることで、服の色や素材、かたちといった、物自体の特徴にまで還元されて扱われていることがその美しさにつながっているのだろう。

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左: 洗い場と住居への階段 
右: デニム生地の衣類を洗う人々  ハーフカメラにて筆者撮影

 ここでは、洗濯人たちが街中から集めてきた衣類を、洗って、脱水して、干して、綺麗に畳む。個人の洗濯物には小さいタグがつけられ、この大きな洗濯場のなかに放り出される。こんなにも複雑な建築の中で個人の衣類が洗濯・乾燥され家まで届けられること、この仕事のシステムがムンバイという大都市で未だ可能であることに驚く。

家政婦ではない洗濯人という存在

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Kiran Rao, dhobi ghat (mumbai diaries), 2011 → Netflix

 映画《dhobi ghat (mumbai diaries) 》(2011)では、ドービー・ガートで働く洗濯人と、偶然にも同じ洗濯人を雇うふたりの富裕層が登場する。
 物語では、前の住人が忘れていった「ビデオテープ」を主人公が熱心に観るシーンと、「洗濯人」の生活シーンの、2つが印象に残る。

 「ビデオテープ」に記録されたある女性の生活には、主人公と同じ部屋のキッチンや、同じ窓から撮られた街の風景が映り、それらは同じ家のようで異なり、華やかなようで寂しい。大都市ムンバイで、女性はいつもビデオの向こうにいる故郷の家族が話し相手だった。誰にも届くことのなかったテープはまだその部屋にあり、主人公の手に渡ったことで女性の記憶がはじめて他人に共有される。主人公はその女性がどこへ引っ越したのかを知るために街の人々に聞くが、誰も知らない。
 いっぽう「洗濯人」は、顧客である主人公が離婚したことや、それでふさぎ込んでいたこと、どこへ引っ越したかなど、複雑な都市において個人の情報を知るキーパーソンになる。興味深いのは家政婦のいる家でも、洗濯は洗濯人の仕事としてあることだ。つまり、建築が単体で持つ文脈や物語、記憶といった、世代を超えた時間軸で少しずつ蓄積されていくソフトな要素が、洗濯を都市が代行することによって外付けハードディスクのように外部化されている。

 洗濯人という生身の人間によって繋がれていく物語は、ビデオテープのように残らない。しかし、インドの貧富の差が生み出した洗濯という産業は、東京の約2倍にもなるムンバイの人口密度のなかで、個人と個人の物語をリアルな都市空間で不意に繋ぐきっかけになる。

家事と都市のあいだで

 日本でのコインランドリーやデリバリーサービスの普及は、生活に選択肢を与えてくれる。雨が続く日や、食事を家で作る時間のない時、それらを利用できることは都市に住んでる豊かさでもある。家の外側のサービスは、私たちを都市へ駆り立てるし、家に閉じ込めもする。そのサービスのあり方によって住まいのあり方も変わっていくだろう。
 一見すると、「家事」という生活のプロセスがサービスという名の下で、白黒フリップしていくオセロのように、家の内と外で反転しているように見える。しかし、洗濯人の存在が、生活と仕事、建築と都市を結ぶ媒体となっているように、そのプロセスは実は白黒はっきりとしたものではないかもしれない。
 点で終わるサービスののりしろが線になり、織物になっていく。そんな家事と都市のあいだでつくられる住まいを考えたい。

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左: 洗い場からみた干場の風景 
右: 自分の身体も洗う人  ハーフカメラにて筆者撮影

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左: 洗い場の風景
右: ドービーガート近くのチャイ屋 ハーフカメラにて筆者撮影


筆者

福留愛 (@aifukudome)
1995年 鹿児島県生まれ。2016年 国立熊本高等専門学校卒業。2018年 熊本大学工学部建築学科卒業(田中智之研究室)。現在 横浜国立大学大学院Y-GSA M3

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