[独占インタビュー] ヘーネスの語る、ゲルト・ミュラーとの出会いから現在まで
—— 以下、翻訳 (インタビュー記事全文)
ゲルト・ミュラー氏は、ドイツの爆撃機であり、ドイツのサッカー史上で最も偉大なストライカーだ。FCバイエルン・ミュンヘンで驚異的なブンデスリーガ365ゴールを記録したゲルト・ミュラー氏は、11月3日に75歳の誕生日を迎えた。ドイツ『tz』紙の行った独占インタビューの中で、ミュラー氏と前線でコンビを組んだウリ・ヘーネス氏(68歳)に、悲しい運命をたどった伝説のアタッカー、ゲルト・ミュラー氏が5年前から暮らす介護施設での生活などについて語ってもらった。
ヘーネスさん、あなたは1970年に18歳の若手選手としてFCバイエルンに入団されましたね。1970年のワールドカップメキシコ大会で大会得点王に輝いたゲルト・ミュラー氏は、当時すでに世界的なスター選手でした。当時の国民的ヒーローとの出会いは、どのようなものでしたか?
代表選手たちはグリュンヴァルトのスポーツ大学でのトレーニングキャンプに遅れてやって来た。その直前まで、彼らはメキシコで開催されたワールドカップに出場していたからだ。ゲルト・ミュラー、フランツ・ベッケンバウアー、セップ・マイアーが姿を現した時は、「テレビでワールドカップの試合を見ていた時に出ていた有名なスター選手たちが、今はなんと目の前にいるのか」と、とても興奮したのを覚えている。そして、こう自分に言い聞かせた。「今から、ミュラーさん?ベッケンバウアーさん?マイアーさん?と呼ぶんだ」と。しかし、そう呼ぶとゲルトはすぐにこう言い返してきたんだ。「おいおい、変なこと言うのはやめろ、俺の名前はゲルトだ」
多くの人にとって、ゲルト・ミュラーというサッカー選手はまさに謎でした。特別にスピードやドリブルに優れていたわけでもなく、どちらかというとスタミナもなく、やや低めのクロスに対するヘディングだけは強かったものの、優れたシュートを持っていたとは言え、それも突出したものではありませんでした。それでも、彼は紛れもなく世界No.1のストライカーでした。それは、どのように説明できますか?
彼の何が特別だったかというと、その驚異的なゴールへの嗅覚だった。例えば、ロベルト・レヴァンドフスキは確かにスーパーストライカーであり、今季はゲルトのブンデスリーガ記録である40ゴールを更新する可能性すらある。しかし、すねや胸、膝を使ってゲルトのようにゴールを決めることはない。ゲルトにとって、どのような形でボールを押し込むかはどうでも良かった。いかなる形であれ、ゴールラインを越えれさえすればいいと考えていたのだ。言い換えれば、ロベルトはボールをネットに突き刺すようなゴールを決める一方で、ゲルトの場合は、ゴールラインをわずか数センチ越えたところにボールが残るなんてこともよくあった。
ミュラー氏のプレー範囲は、完全にペナルティーエリア内に集中していましたね。
彼は、ペナルティーエリア内でのボール処理能力が高かった。攻め手が見つからない時は、私はただゲルトにボールを預けていた。彼なら、目を閉じていても、いつでもボールを使って何かをすることができる。彼からボールを奪うのは信じられないほど難しかった。例えば、練習でゲルトがうちのチーム相手に3ゴールや4ゴールも決めると、パウル・ブライトナーと私は「じゃあ、今度は2人で一緒にゲルトをカバーしよう」と言っていた。そして、いざペナルティーエリアに入ると、かたや右で、かたや左でかわされて、気が付けばボールはゴールの中に入っていたということもあったね。
ミュラー氏のゴールへの貪欲さは、当時の代名詞にもなっていましたね...
彼のイメージの中には、サッカーと言えばゴールしかなかった。彼にとってゴールが全てだった。(当時の監督)ウド・ラテック氏はトレーニングで常にベテラン対若手の紅白戦をしていたし、ゲルト・ミュラーのチームが勝って彼が得点するまではずっとプレーしなければならなかった。それが2時間かかることもあった。次の話も典型的なものだ。1972年、ミュンヘン・オリンピアシュタディオンのこけら落としとなった、国際マッチのドイツ対ソビエト連邦の試合。相手ゴールキーパーをドリブルで追い抜き、5mの距離から無人のゴールへと優雅にボールを流し込もう...。そう思った瞬間、突如、後ろから誰かの体が当たり、私はよろめき倒れた。そして次の瞬間、私はゴールの中にいた。ボールはゴールの中だ。得点者はゲルト・ミュラー。彼は無理やり後ろからゴールにボールを押し込んだのだった。その時、私は少し苛立ちを感じたよ。それでも、最後まで怒ることはできなかった。これは、何とも言えない彼の魅力だったのだ。彼は是が非でもゴールを求めた。そして、一つだけ覚えておいてほしいことがある。ゲルトは数多くのゴールを決めただけでなく、重要な場面での決定的なゴールも多く挙げている。その当時、もし私が監督だったとしても、彼を途中交代させることなどできなかっただろう。たとえ調子の悪い日であっても、最後の最後でゲルトはきっと得点できることを知っていたのだから。
あなたとミュラー氏とのコンビは、瞬く間にドイツサッカー史上最高の2トップへと成長し、3度のDFBポカール優勝のほか、ワールドカップ(1974年)や、欧州選手権(1972年)でも優勝を果たしました。あなたは何年にも渡りミュラー氏の隣でプレーしていましたね。なぜこれほどまでに機能したのでしょうか?
私はゲルトにはない能力を持っていた。スピードがあり、ドリブルも得意としていた。そして、ゲルトへとボールを届ける義務を感じていたのだ。私は常にこの役回りを受け入れてきた。たとえ私が相手をうまく交わしフリーでシュートを打てたとしても、チャンスさえあれば、ゲルトに横パスを出した。彼にとってゴールは重要だったが、私にとってそれほどではなかったからだ。
ミュラー氏は、プレーへの意欲に満ち溢れていましたね...
ああ、その通りだ。そして、このプレー意欲は、シャーフコップフ(バイエルン地方などで盛んなトランプゲーム)にまで現れていた。当時はバスでの移動が多かったね。移動中は、ゼーベナー通りからフランクフルトのホテルに入る前までずっとトランプをしていた。そして、その後は夕食だ。夕食後も、シャーフコップフの続きをしたね。ゲルトは常にその中にいた。そして、彼はこのカードゲームでも優れたプレイヤーで、他の人たちの手札を常に把握していた。
現役時代、ミュラー氏との個人的なつながりはどうでしたか?
我々は共に良い戦友だった。ゲルトは誰からも愛されていたが、チームメイトとの距離を縮めることはしなかった。彼はサッカー以外にもプライベートな友人関係を多く持っていた。それでも、彼には特別な親近感を感じさせるものがあった。それもまた、彼の優れた人間性を常に感じていたからだね。
ここに、1974年のUEFAチャンピオンズカップ決勝アトレティコ・マドリード戦で4-0の勝利を収めた直後の写真があります。そこには、あなたがミュラー氏と二人で肩を組んだ姿が写っています。そして、二人からは輝かしい喜びが見て取れます。その当時のことを、あなたはまだ覚えていますか?
もちろん、覚えているよ。それも、かなりハッキリとね。あの日は、私の現役生活のハイライトと言っても過言ではない。幸せが何かを表現するのなら、まさにその当時の感覚ではないだろうか、と思うほどだ。不甲斐ない試合をし、初の決勝戦で1-1と引き分けた後の再試合だった。試合終了間際の120分、私たちはシュヴァルツェンベックに救われたのだ。チーム内でのルールとして、実はディフェンダーによるシュートは禁止だった。そして、30メートルの距離から放った彼のシュートは、値千金のゴールとなった。でも、試合後は完全に消耗し切っていた。この再試合の前日には、ホテル裏の小さなピッチで練習に励んでいた。完全に疲労し切って、這いずり回っていたため、それを見ていた人がいたら、次の日に勝つなんて思ってもみなかっただろうね。それでも、FCバイエルン史上最高の試合を披露した。ゲルトは2ゴールを決め、もう2ゴールは私が決めた。この4対0に勝る勝利はない。 死の淵に立ちながらも、私たちは教科書通りの試合展開を見せた。この試合でゲルトもまた、ファーコーナーへの素晴らしいロブを成功させたのだった。
ゲルト・ミュラー氏は、すべてのゴール記録を更新し、勝ち獲れるあらゆるタイトルを獲得し、彼はまさにスーパースターでした。しかしながら、彼がそのような振る舞いをしたことはありませんでした...
それどころか ゲルトはいつも自分のことを隠していた。彼は、このきらびやかな世界に居心地の良さを感じていなかった。唯一の贅沢といえば、当時のFCバイエルンの選手たちの多くが持っていた、巨大な毛皮のコートだった。初めはゼップ・マイアーが着てきて、フランツ・ベッケンバウアーがそれに続き、私もカナダ産オオカミの毛皮のコートを購入したよ。全盛期のシュワルツェネッガーのようだったね。今思えば、本当にクレイジーだったし、今ではそんなことをする人はいないだろうが、当時はそういう時代だったのだ。最後にゲルトがそれに続いて、カナダ産のキツネの毛皮のものを買った。彼もこの流行に乗ったというのは、まさに世界の不思議だったよ。ゲルトは、人生の98.5%をトレーニングウェアを着て走り回るような男だったからね。
ゲルト・ミュラーは、チームの中でも常に非常に穏やかな性格でしたね。彼は本当に口論などなかったのでしょうか?
我々からすると、ゲルトは常に正当性を重視する男だった。それは、1974年のドイツ・ワールドカップのボーナスをめぐる騒動からも見て取れる。当時、DFB(ドイツサッカー連盟)から代表選手たちには僅かな金額しか渡されず、ゲルトはトレーニングキャンプの最中に声を荒げた。「もう帰るぞ!」とね。その後、選手たちの間で投票が行われ、結果は11:11だった。これはワールドカップ直前の出来事だった。チームの半分が、もう帰国したいと思っていたのだ。最後はフランツ・ベッケンバウアーがDFBと交渉してくれて、7万マルク(約44万円)のボーナスとなったため、我々は代表チームに残ることにした。
それに見合った活躍でした。ドイツはワールドカップ決勝でオランダを2-1で下し、世界王者となりました。その試合で決勝ゴールを決めたのは、ミュラー氏でしたね。
あのゴールは信じられないものだった。鋭いセンタリングをうまく受けてからの、振り向きざまのシュートだった。まともなシュートではなかった。なんとかしてゴールにねじ込んだのだ。典型的なゲルトらしいゴールだったと言えるね。
彼のゴールというのは、FCバイエルンにとって偉大な時代である70年代の鍵を握っていましたね。
その通りだ。当時の偉大なチームで際立っていたのは、ゲルトとフランツの二人の選手だった。彼らはプライスレスで、選手として替の利かない存在だった。
ゲルト・ミュラー氏の決めた数々のゴールがなければ、今のようなFCバイエルンはなかったという意見について、どう思いますか?
それは間違いない。もしゲルトがいなければ、100%まるで違ったものになっていただろう。FCバイエルンは、ゲルト・ミュラーがこのクラブにとってどれほど重要な存在であったかをよく知っている。我々の全員が、いつまでも心の底から彼への感謝の気持ちを忘れることはない。
2014年、ゲルト・ミュラー氏が認知症を患っていることが発覚し、5年前から介護施設に入所しています。かつての仲間が重症であると知った時、あなたはどのような心境になりましたか?
私自身、ゲルトとともに限りなく美しい体験を数多くさせてもらった。サッカーファンの皆さんも、彼と言えば素敵な記憶や写真を連想するものだと思う。それこそが、いつまでも彼が元チームメイトや素晴らしい試合の仲間たちなど、我々の記憶に残る所以だ。彼は偉大なストライカーとして、偉大な戦友として、そして偉大で立派、優れた人間として、常に謙虚で、誰にでも優しい言葉をかけていたね。
コロナ禍の今でも接触はできていましたか?
いや、今のところ彼のもとを訪れることはできていない。しかし、彼と一緒に、それも毎日のように、信じられないほど彼の世話をしているのは、彼の奥さんウッシーだ。彼の運命には、多くの人々が大きく関与している。あらゆる方面から幾度も彼の様子について聞かれる。こうして思うのは、ゲルトは敵のいない数少ない人間の一人であるということだ。そんな彼のような人間を、私は他に知らない。ゲルトについて悪く言う人は、誰もいないよ。
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