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ゴレツカの語る「差別撤廃や反右派など社会活動への思い、欧州選手権への抱負」

—— 以下、翻訳 (インタビュー記事全文)

レオン・ゴレツカにとって、状況はこの上ないものだ。彼は、FCバイエルン・ミュンヘンで1年の間に6つのタイトルを獲得し、おそらく、すべてが嚙み合えば、この夏、代表チームで新たなタイトルを獲得することさえ可能だろう。その前に、彼からいくつか伝えたいことがある。

私たち『DBモビール』は、ゴレツカに会い、現在の彼のイメージである「相反する要素を持つ男」の核心に迫った。ジムで筋トレに励む一方、ガールフレンドのママチャリに乗ってチームトレーニングに通う。また時には、ピッチ上では、そのパワフルな体格で力強さを発揮する一方、コロナの犠牲者のために募金を募る姿など、ピッチ外でも共感を呼んでいる。背番号18のミッドフィルダーは、バイエルンで、あるいは代表チームで、最終的にリーダーになりたいと考えていることがよく読み取れる。しかし、それだけでなく、熱い気持ちが芽生えたときに行動で示す数少ないアスリートの一人としても活躍している。誰もが彼の考え方を好むわけではない。しかし、ボーフム出身で3人の姉妹とともに育った彼は、逆境にも耐えてくれるはずだ。スタジオで彼は、徐々に打ち解け、ジョークを飛ばし、ある時は「ファシストにはサッカーをさせない」というスローガンを掲げた旗を振った。カメラマンが照明を切り替えるまでは。その後、床の上で、彼は腕立て伏せを1セットしてみせた。

ゴレツカさん、サッカービジネスに身を置く中で、孤独さを感じることはありますか?

いや、ないさ。そう思う理由があるかい?

なぜなら、あなたは卓越した選手であるだけでなく、サッカーの枠を超えて物事に取り組む人物だと評価されているからです。

僕も例外ではなく、新世代の選手としての個性が出てきたと思う。僕を特別なプロサッカー選手だと括るのは時代遅れさ。以前なら、それは僕はアウトサイダーな存在だったかもしれない。しかし、僕らの世代というのは、大多数の人たちがイメージする選手像、「自我の強い大金稼ぎ」とい固定概念とは違うんだ。もちろんネガティブな例もあるが、幸いなことに、僕らのような思いを持った人が増えている。友人であるセルジュ・ニャブリやヨシュア・キミッヒ以外にも、「We kick Corona」の取り組みを一緒に始めた人たちがいるよ。

もう1年以上、無観客のスタジアムでプレーしていますね。慣れるものでしょうか?

残念ながら、慣れてしまったね。とはいえ、ファンの前でのプレーが恋しくないというわけではない。逆に、無観客試合はどんどん我慢できなくなっているということだ。そして、プロサッカーが将来に向けて間違った決断をすれば、スタジアムではこんなにも静かなままになってしまうというのは、誰の目にも明白なはずだ。ファンのいないサッカーはなんとか変えなければならない。だからこそ、コロナが終わったらスタジアムに来たいと思ってもらえるようにしなければならないんだ。パンデミックが問題化した当初、これが、サッカービジネスの誤った傾向に疑問の目を向けるチャンスになるということは、皆が感じていたと思う。しかし、誰もがそれを理解しているわけではないようだ。スーパーリーグ構想は、僕にとって衝撃的だった。このようなエリート主義的な考えに陥れば、正しい方向を模索するどころか、間違った方向に進んでしまうだろう。

そのような行き過ぎた行為が、あなたのサッカーへの興味を削ぐことはあるのでしょうか?

いや、それはない。だが、非常に大事なのは、自分の熱意を持ち続けることだ。もちろん、怪我のリスクを考えずにプレーしていた頃のような気楽さはないが、プロである以上、数多くの悩みがある。しかし、僕がサッカーを好きになった理由や、今も変わらい気持ちは、いくつも挙げられる。予測不能なスポーツであること。分かりやすいスポーツであること。誰もが参加でき、公平に勝利のチャンスがあること。そして、サッカーは数分ですべてが変わってしまうということ。2017年、ドルトムントでのダービーで、シャルケは0:4とリードされていた。しかし、最後には4:4と追いついたんだ。その試合を思い返すだけで、すぐに鳥肌が立つよ。今でもね!

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あなたが子供の頃にテレビで見た試合のうち、忘れられないものは?

7歳の時に観た、2002年のワールドカップ(日韓大会)の決勝戦。それは、僕が最初に覚えている試合の一つだ。自らドイツ代表をこの決勝まで導いた、オリバー・カーンのミス。僕たちの競技ではつきものの悲劇だ。こうしたショックはあったが、当時の魔法のような大会をよく覚えているよ。地球の反対側では、ドイツ中を熱狂させたイレブンがピッチに立ちつくした。そして、家のソファで僕は、その歴史のほんの一部の中にいたんだ。

ご自宅では、サッカーはどれほど大切でしたか?

重要だったよ。だが、決して一番というわけではなかった。父はいつも僕にこう言っていた。「もしお前に練習へ行くよう説得しなければならなくなったら、もうおしまいにする。そこで、無理に頑張って続ける必要はない。楽しくなければならない」とね。だが、結局はずっと続いたね。元々、プロになりたいという強い気持ちは、全くと言っていいほど持っていなかった。僕はただ、サッカーが好きで好きでたまらなかっただけなんだ。

当時、アビトゥア(大学入学資格)の勉強も並行して行っていましたね。

だが、それも本気でやりたいという思いがなければ、うまくいかなかったと思う。両親は僕を追い込むことはなかった。資格試験の年には、シャルケでチャンピオンズリーグを戦っていたため、多くの授業を欠席し、家で補習をしなければならなかった。でも、学校は楽しかった。それも特に、僕の生活の中心は、サッカーではなく、それとは別の世界だったからだ。今の親友たちとも、高校時代に知り合ったんだ。

彼らとの関係は、今でもまだ続いているということですね?

そうだね。ちょうど先週、ボーフムに住む親友が遊びに来てくれたんだ。今でもルール地方に行くと、友人みんなと会うことがあるよ。彼らは、僕がまだプロ選手ではなく、裕福でもなかった頃を知っている友人たちだ。彼らと意見を交わすことは、僕にとって大きな意味があるんだ。

もし、プロサッカー選手になっていなかったら、何になっていましたか?

それは何度も考えたことがあるよ。僕の友人からはいつも、弁護士か医者だと言われるね。弁護士というのは、どんな物事に対しても情熱的に議論するのが好きだから。そして、医者は、人の体の仕組みに興味があるから、というわけだ。それぞれの学科をきちんと修了することができたかどうかは、わからないけれどね...。

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現在、スーパーリーグ構想の議論だけでなく、例えば、カタールで開催のワールドカップについての報道などから、多くのファンが「サッカーは金のことしか考えていない」という印象を持っています。あなたの世代の選手たちは、それに対して、なんらかの意思を示す必要があるのでしょうか?

ああ、もちろんさ。僕自身は、スポーツの成功がもたらす注目度や影響力を利用して、議論が必要な問題を、しっかりと議論の場に上げたいと考えているんだ。それが僕の役目だと思っている。

具体的には、何を取り上げたいと考えていますか?

特に、人種差別と外国人排斥だ。このことは僕の心に深く刻まれており、今後も機会があるごとにこの問題に取り組んでいきたいと思う。チームスポーツは、社会がどのように機能すべきかを示すピッタリな見本だ。どこ出身なのか、どの言語を話すのか、どんな文化を持っているのかは重要ではない。そして、それを僕たちの国にも100%適用してほしいと思う。

それがまだ足りていないと思われる点は、どこでしょうか?

正直に言うと、人種差別は長い間、僕にとって問題ではなかった。僕は当初、移民系の生徒が非常に多い中学校に通っていたこともあり、古い偏見を捨てたと思っていたんだ。2019年3月に行われたセルビアとの国際試合で撮影された、ある映像を見るまでは。そこでは、一人の観客が、レロイ・サネとイルカイ・ギュンドアンを、最も卑劣な人種差別というやり方で侮辱している様子が映し出されていた。僕が一番ショックだったのは、この映像を撮影した勇敢なジャーナリストを除けば、周りの人たちは誰も何もしなかったということなんだ。だからこそ、翌日の記者会見では断固とした態度で臨むことにした。それをきっかけに、いつでもはっきりと明確に声を上げるようになったね。

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ドイツのサッカー専門誌『11フロインデ』は、「俺たちを頼ってくれ」と銘打ち、スタジアムで起こるもう一つの差別、同性愛者の選手のためのキャンペーンを開始しましたね。プロ選手たちは、チームメイトが同性愛者だとカミングアウトした場合、団結すると誓っていました。その中に、FCバイエルンの人は誰もいませんでした。

このキャンペーンは素晴らしいと思ったし、好意的な反応はとても嬉しいね。もし、こうした機会がまたあれば、ドイツ代表として、あるいは僕個人として参加することは十分に考えられるよ。

フィリップ・ラーム氏は、プロのサッカー選手にカミングアウトはお勧めしない、と語っていますね。

僕はみんなを励まし、応援することを約束するよ。そして、もしカミングアウトする勇気が持てなくても、理解を示したいと思う。僕の望みは、自分が現役時代のうちに、カミングアウトする選手が出てくることだ。そして、ファンの皆さんも、ネガティブな予想に反して、きっと僕たちが考えているよりもずっと自然にこのテーマを受け止めてくれると確信している。こうした問題に関しては、社会の方がスポーツよりもはるかに進んでいることが多いんだ。

あなたは最近、右派政党のAfDを「ドイツの恥」と呼んだり、ホロコーストの生存者であるマーゴット・フリートレンダー氏と会ったりして、ご自身の意思を行動で示してきました。

これまで、何度も大舞台に立ってきたほか、何百万人もの人々が観るような試合でもプレーした。それでも、この対談の前ほど緊張したことはなかったね。この素晴らしい女性に会えたことを光栄に思うよ。政治的な発言をするようになってから、たくさんの励ましの声をもらうようになった。しかし、多くの反対の声があったのも事実だ。残念なことに、反対意見というのは常に、味方してくれるサイレントマジョリティの声よりも過激だ。それこそが今、僕が取り組んでいるもう一つのテーマさ。

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つまり、ネット上の誹謗中傷ということですか?

そうだ。それがたとえ有名人であっても、自分自身や家族を侮辱されたり、死ねと言われて、それを我慢する必要はないのだ。僕たちプロサッカー選手は、自分についてどう書かれているのか気づかないわけではない。僕はそれに対処できるが、それは僕がまず習得しなければならなかったスキルだったからだ。誰もができるわけではない。何年かおきに、悲みの出来事に思いを馳せ、選手へのプレッシャーについて語っている。しかし、それはたった1週間だけで、その後は仕事を続けなければならないし、次の試合が控えているんだ。

そうしたプレッシャーに対して、対処する術をどのように学んでいったのですか?

17歳のとき、VfLボーフムで3部リーグ降格の危機に晒されてプレーしていた。そして、アウエ戦で1:6で負けた後、学校の玄関でゴミを投げつけられたことがある。あるいは、シャルケからバイエルンへの移籍を発表した時だね。自分に対して反感を持つ6万人の前に立ってプレーするわけだからね。これらは、自分が壊れてしまうような状況なんだ。生まれつき平気な人もいれば、苦手な人もいる。だが、鍛えるのは難しいことさ。

鍛えられるのは筋肉。昨年、あなたは急に筋肉量が増え、トロフィーを掲げるたびにチームメイトから上腕二頭筋を祝福されていました。

スタジアム内や決勝の舞台といった、プレッシャーのかかる状況では、今の自分には何が起きても平気だと思えるほどの自信を持たなければならない。選手としても、人としても強い、というね。この筋肉を手に入れてから、試合に臨む気持ちが変わったと言っても過言ではない。その言葉通り、僕を強くしてくれたんだ。まるで防護服のようだと言ってもいいかもしれない。

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あなたは少なくとも、トレブルを達成した2019/20シーズンには、FCバイエルンで絶対的なリーダーになりましたね。ウリ・へーネス名誉会長は先日、あなたがミュンヘンに加入した2018年当初、実はあなたに失望していたと述べていました。

1年目のシーズンでも、FCバイエルンでMFとしては上位の得点数を決めていた。しかし、同時にハッキリしたのは、リーダーになる要件というのは、パフォーマンスや仕事ぶり、時間であって、期待だけでそうなれるわけではないということだ。ここでそれを実現したかった。そして、すぐにここでもそういう存在になれたと思う。

多くのバイエルンのスター選手とは違い、あなたはグリュンヴァルト郊外ではなく、街の中心部に住んでいますね。

クラブでプレーするときは、その街のことも知らなければならない。僕は、ミュンヘンのことをちゃんと知りたいと思ったんだ。僕はカフェを訪れるのが好きで、できれば夏にサングラスをかけて、通りの日常の一部になりたいとさえ思っているよ。そうやって、日々の大きな注目から逃れるんだ。もちろん、たまには声をかけられることもある。あるいは、ガールフレンドのママチャリに乗ってジムに行くと、タブロイド紙の見出しになったりもする。しかし、こうした生活のためなら、喜んで対価を払うよ。

ボーフムの街は恋しいですか?

それは間違いないね。ミュンヘンはとても居心地がいいとはいえ、ボーフムやルール地方は、僕の故郷なんだ。そこには友人や家族がいる。今でもVfLボーフムの試合は必ず見るようにしている。そして、いつか自分のキャリアの最後にでも、再びこの地でプレーすることを想像しているよ。クラブと街には多くの恩を感じているんだ。ボーフムの街を知らない人に紹介するとき、僕はいつもこう言っている。ボーフムに行くことになれば、あなたは2回泣くだろう、とね。それは、街に着いた時と、去る時だ。その土地の郷土愛や結束力は、何とも言い表せないものがある。それが、ボーフムの特徴さ。そして、それこそがルール地方の特徴でもあるんだ。

あなたの父親は、オペルの従業員だったのですね。

そうだね。僕はまさに労働者階級の家庭の出身だ。そして、オペルの工場閉鎖が、人々にとってどのような意味を持つのか、当時の僕は身をもって体験したんだ。父は、自分が人生をかけて働いてきた工場の廃業を手伝い、そこで同僚たちと最後の朝食をとることになった。それを目の当たりにすると、とても辛い気持ちになるね。昨年、「We kick Corona」のサイトに寄せられた慈善団体や社会福祉団体からの申し込みを読んで、僕はかなり驚いたよ。この困難な時期の、団結や献身にとても感動したんだ。プロサッカー界がいかに幸運であるかを改めて感じる出来事だったね。

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まもなく、ヨアヒム・レーヴ監督の時代だけでなく、アンゲラ・メルケル首相の在任も終了します。総選挙で誰に投票するか、もう決まっていますか?

もちろん、決まっているよ。でも、それが誰かは秘密さ。僕はまだ選挙に一つの希望を持っている。それは、パンデミック中、自らが決して選択肢にはなれないことを何度も露呈してきた右派政党、AfD(ドイツのための選択肢)が、できるだけ多くの票を失うことだ。母国のためにプレーが許されるのであれば、僕らの価値観や憲法のためにプレーしたいんだ。歴史の中で、それを疎かにした国のためではなくね。黒、赤、金は民主主義の色であって、決して右翼の色ではないのだ。

ヨアヒム・レーヴ監督が去ってしまうと考えると、寂しいですか?

もちろんさ。彼はこれまで、ドイツのために素晴らしい役割を果たしてくれたんだ。

このタフな今シーズンを乗り切った後の、欧州選手権を楽しみにしていますか?

今では、サッカーの喜びは、ファンもいない中、全体的にやや味気ないなものになっていまっている。とはいえ、僕にとっては初めての欧州選手権だ。だから、この大会がとても楽しみだよ。また、2018年のW杯の時とは違い、自分がより重要な役割を果たせるようになったから、というのもあるね。

あなたは今、ドイツ代表でも主役の一人になりたいと思っていますか?

もちろんだよ。バイエルンと同じく、代表チームでも責任ある選手になれたと言えるだろう。そして、最近は苦い経験もしたが、欧州選手権では良い戦いができるはずだと楽観的に見ているよ。

万が一、この欧州選手権が中止になった場合、どうしますか?

オリンピックに出て、そこでプレーするよ。僕はオリンピックで銀メダルを獲得したが、金メダルはまだなんだ!

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心に優勝杯を、手に優勝杯を

レオン・ゴレツカは、1995年2月6日にボーフムで生まれた。3人の姉がおり、全員が大学に進学している。だからこそ、彼はサッカーと並行して、アビトゥア(大学入学資格)の取得という二重の苦労に耐えたのかもしれない。

ゴレツカは、VfLボーフムのユースで育ち、18歳でプロ選手となった。育ててくれた故郷のクラブに感謝し、ブンデスリーガ2部でプレーした彼だが、クラブによると「本人が希望さえすれば、当時、多くの世界トップクラブにフリーで移籍することもできたのだ」という。

2013年、ゴレツカはFCシャルケ04に移籍。 2014年、ワールドカップの予備登録メンバーに選ばれたものの、ポーランドとのテストマッチで負傷した。2016年のリオ・オリンピックでは、ゴレツカはドイツのキャプテンを務めたが、今度は初戦で再び負傷してしまった。銀メダルを獲得したシャルケのチームメイト、マックス・マイヤーは、表彰式でゴレツカのユニフォームを掲げた。

2018年夏、ゴレツカはバイエルン・ミュンヘンに移籍。その後、ブンデスリーガやDFBポカールを何度も獲得し、昨季は1シーズン中に獲得できる6タイトルをすべて獲得した:マイスター、ポカール、チャンピオンズリーグ、ドイツスーパーカップ、UEFAスーパーカップ、FIFAクラブワールドカップ。

▼元記事
https://dbmobil.de/leute/interviews/fussball-war-nie-das-wichtigste


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