見出し画像

はじめてのタイ移住/チェンマイを離れてもうすぐ4年

タイ移住のきっかけであり、私のはじめての海外生活の街チェンマイ。
自分の選択でチェンマイを離れてから4年くらいが経過した。

今日はそんなチェンマイのこと、離れたことで得られたものや気づきなどをつらつらと書いていく。

チェンマイの街を2回目に訪れた時「この街に住むな、いつか」と確信した。それから数年以内、住むチャンスがやってきた。

周りに大幅な反対をされながらも、大半は無視するかたちで準備を重ねていった。反対の理由としては、仕事をやめていくので「そっちで仕事どうするの?」「語学力ないじゃん、やっていけるの?」「せめてバンコクにしたら?」そんな大変真っ当な意見ばかりだった。

そんなこんなでチェンマイの暮らしが始まった。
仕事に関しては、ありがたいことに当時の仕事をフリーランスできることになった。
語学に関してはは向上させる気なし、という強気な姿勢で挑んでいった。

チェンマイの暮らしの思い出は濃厚すぎて、またどこかで語るとして。
チェンマイ生活の中で、壁にぶち当たった。
そして長い目で見て、もっとここに住むためにも他の場所で経験を積もうという考えに至ったのだ。

その経験を積む場所に選んでいたのがミャンマーもしくはベトナムだった。

そんな構想の真っ只中、コロナの不穏な空気がチェンマイにやってきた。
そして、中国にルーツを持つタイの知人や周りの人と話した結果、これは世界的に長引くと容易に判断できた。

そして、当初の構想中の2つの国の情報を収集し今現在行ったとしても長期で外国人が住めるとは思えないと判断した。
その時とっさに台湾に住む友達に現在の状況を聞いてみた。

その頃の台湾のコロナに対する対応の素早さをきいて、今なら間に合うかも。と思い台湾へと向かった。

ここから予定していなかった台湾での暮らしが始まったのだ。

台湾の暮らしきっかけではじめたのがまさにこのnoteだった。

チェンマイの暮らし2年間、考えることや自分の課題としておいていたものや達成したいことが多すぎて心の整理を放っておいていた。

その溢れる思いをこのnoteにどんどん書き起こしていった。

台湾での暮らしはチェンマイのそれとは全く違うものだった。
「チェンマイに早く帰りたい」という気持ちが常にあった。

人に会うことで気がまぎれるかと思いきや、誰かと会うことこそより一層なぜかここにいることが孤独に感じて自分の味方はここにはいない。
そんな感情になることも多かった。

はじめの1年はnoteに気持ちを整理したり、ただただ台湾の暮らしのストレスをどう消化していいかわからぬまま時間が過ぎていったように感じる。

たった一つの救いは、日本にいる友人と電話で話していたこと。

時には泣きながら愚痴をいったこともある、時にはというか結構頻繁に。
日本にももちろん帰れるけれど、このあともタイに戻って海外生活を続けるということは自分の中で決まっている。

本来の構想の地ではないものの、せっかく外国のストレスがここにあるのだから強くなれるチャンスだし学びも多いはず。

そんな理由から台湾を離れる、という選択は一切なかった。

勘違いしないでほしくないのは、台湾は何も悪くないということ。

私はこの経験がはじめてで戸惑っていたのだのだ。

1.住みたいと思っていない国に住むこと
2.タイと全然違う国や国民性
3.「なぜ日本よりタイを選ぶの?」の質問の多さ
4.やたら友達に誘われる
5.台湾をおすすめされまくる
6.親日がえぐくて日本の話題は常にあり

今思いつくのはこのあたりだ。

1に関しては、自分からお世話になっていて大変失礼な話。
ただ、非常にこれがはじめてすぎて会話のふしぶしでなんだか申し訳なく思えてくる。

そしてついに気づいた。「私、台湾に罪悪感抱いてる?」

恋愛に置き換えると、好きな人が決まっている時にめちゃくちゃとんでもなく親切にされて自分をおすすめしてくる人が現れる。
まったく嫌な人ではない、しかし好きな人への気持ちはまったく揺らぐことがない。
親切なその人といる時間にいつしか罪悪感が生まれてくる。

こんな感じだったのかもしれない。

そんなこんなで戸惑いがありつつも、仕事面や活動面でも大きく成長できたといえるのが台湾生活。

なぜなら、失礼ながら好きでここにいるわけではないので
旅行やお出かけもまったく興味なく仕事や興味ある活動に専念できるからだった。

振り返ると、この台湾の暮らしでチャレンジできたことは多数。

オンライン日本語先生、webライター、動物保護施設ボランティア、言語交換イベント参加、海のゴミ拾いボランティア。

暮らしに関してもいろんな経験ができた。

台湾女性とシェア生活、ホステル暮らし、離島生活。
大人になってからのシェア生活というのははじめてだし、外国人と一緒に暮らすのも初めての経験だった。

何より彼女がとてもいい人だったので、8ヶ月もシェアで彼女の家にお世話になることができた。

誰かと住むことで何が窮屈か、自分のリズム、生活へのこだわり、
そんな部分を知ることができた。

台湾の2年半の暮らしを経てタイへ戻る。
選んだ地は、まさかのバンコク。チェンマイを選ばなかった私。

2年半の好きで住んでいるわけではない暮らしで強くなった私。
そして確実に得たものがあったわけで、この勢いのまま大好きな街に戻る前に苦手な都会バンコクの暮らしを挟んでみようではないか。

何より、今後のタイの暮らしの選択肢が増えるかもしれない。
自分の視野をもっと広げられるかもしれない。
しかも、ここはタイ国内で行こうと思えば飛行機で1時間でチェンマイへ足を運べる。きっと大丈夫。

そんな不安混じりな気持ちでバンコクに足を踏み入れた。
そこからおよそ1年半が経過。

ここで得たもの、やはり数々あって。それに加えて同じタイなのでチェンマイで培ったものが応用としてこのバンコクの新生活にもいろいろ生きている。

そのことを実感できるのもとても楽しく感じている。それに加えてチェンマイに戻ると、なじみの人たちが「おかえり」と声をかけてくれる。

会うたびに今バンコクでこうしているよ、ああしているよ、そっちはどう?
と互いに報告しあう。
そして、また今年くるからね、と笑顔で手を振って別れていく。

同じタイだし近いよね、というお互いの感覚とお互い別の場所で頑張っているよねという気持ち。

そして、時間が経ってやっと「この子は本当にタイが好きなんだね」と理解してもらえている気がする。

チェンマイに住んでいた頃、「ここが好き」「ここにずっと住みたい」そう言ってもどうせすぐ日本に帰るんでしょ、という反応を感じていた。

今は自分なりの方法で、選択肢を探して広げてチェンマイにまた顔を出す。
戻るたびに何か進化している自分がちゃんといる。

何より自分自身が、あの頃よりも自分を認められているように感じる。
それは、チェンマイを離れた4年の間経験したことや揺らがない想いが今の自分を創り出していったんだろう。

チェンマイを離れて4年。
前よりも私の感覚ではもっと近づけている、そう感じている。

近々またチェンマイに戻る、みんなに会えるのが今からとても楽しみだ。
今の私にとってのチェンマイはホームであり、安心する人たちで溢れ帰りたくなる場所。

ありがとうございます。

2024.7.3 concoji


この記事が参加している募集