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岐路 3

ショックだった。
突き放されるなんて考えもしなかった。しかしやはり説得力はある。先ほど感じた「自分は単に甘えているだけなんじゃないだろうか?」という思いの他に「場違いな発言をしてしまった」という何とも言えない恥ずかしさがこみ上げてきたのだった。
けれども、それ以上に信じていた人に裏切られてしまったような失望感の方が遥かに上回った。
なぜならこの時、この瞬間まで先生は自分の味方だと信じて疑わなかったからだ。
その時まで僕は先生のことを「教育熱心で教師の鏡のような人」と密かに心の中で尊敬していた。
先生は体が弱く病気がちではあったが、無理を押してほぼ毎日のように、放課後や夏休みの補習講義を行っていた。
照れ屋な性格なので、たとえ模擬試験の結果が良かった生徒に対しても露骨に労ったり褒めたりはしなかったのだが、それでも激励はしてくれたし、先生の気魄が自然と自分にも伝わってきてその思いに報いなければと心が奮い立った。
冷酷ではあるがこの人の指導に従い、付いていけばおそらく間違いはないと。だからこそここまで弱音を吐かず勉強にも取り組んでこれたし、毎朝のホームルームでの厳しい叱責も(もっともクラスの連中はうんざりしていたが)受け入れ、一言一句真剣に聞いていた。
しかし、そんな僕の期待や願望は幻想でしかなかった。どうやら先生は僕個人の内面の理解は愚か、関心すらハナから持っていなかったらしい。
先生の情熱の行方はあくまでも「進学クラスの教師としての責務」を果たすことのみに向けられていて、所詮僕達はそれを遂行するための駒でしかなかった。少々辛辣に思われるかもしれないが、自分にはそういった大人社会の“仕組み”と“事情”など知るすべもないのでただ「裏切られた」「利用された」という感情しか湧いてこないのだ。
もちろん先生にとっては「自らに課せられた条件」と「生徒たちが自分に求めるもの」が同一であることになんら疑いはなかっただろうし、実際大半の生徒との間に意識の隔たりはそれほどなかったと思う。しかしながら、自分の将来や人生のビジョンはまだ朧気であり、自らの意思でそれを模索していこうという思いが芽生えるより先に、ただ純粋に先生の情熱を受け入れてしまった場合それは悲劇でしかない。
この時僕は初めて自分以外の者に意思を委ねることの危険さとその愚かさを知った。
自分は他力本願であり従順で、主体性も自発性もなく、何より軸になりえる確固たる意志がなかった。自己放棄……いやそもそも自己などないのだ。
意志を持たない人間は隷属的に生きるしかなく、自由すらも使いこなせない。
なんのことはない当然の帰結である。ツケが回ってきたのだ。
人生の選択を放棄し、それを他者に委ねれば当然自分の思い描いた理想の未来はやってこないし、それどころか常に不満を抱えて日々を過ごす。待っているのはそんな人生だ。(岐路4へ続く)

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