【第586回】『怒り』(李相日/2016)

 ネオン輝く東京の夜景、八王子の蒸し暑い熱帯夜、南条刑事(ピエール瀧)と部下の北見刑事(三浦貴大)は夫婦殺人事件の捜査でやって来ていた。廊下に溜まった血溜まり、抵抗して壁に付いた血痕が事件の陰惨さを物語る。風呂場に沈められた妻の死体に付いた首のアザ、居間には夫が滅多刺しの末、仰向けに倒れていた。台所のテーブルの上に散乱した手をつけられた幾つかの食材、窓を締め切ってこもった空気は、絶望的なまでに腐敗し、強烈な匂いを放っている。廊下のドアを開くと、壁に書かれた「怒」の文字。血液が重大な決め手となり、犯人は全国に指名手配される。犯人の名は「山神」、彼は顔の整形を繰り返し、1年にも渡って捜査の目を撹乱していた。同じ頃、槙洋平(渡辺謙)はうだるような暑さの新宿歌舞伎町を、まるで迷子のように右左を見回しながら歩いていた。猥雑な雑居ビルの中の風俗店に洋平は娘の愛子(宮崎あおい)の姿を見つける。「お父ちゃん」愛子の声は罪悪感の欠片もない無邪気さに溢れていた。彼女を救出し、千葉の実家へと連れ戻すが、小さな町では噂ばかりが飛び交う。大雨の夜、従兄弟の明日香(池脇千鶴)は洋平に心配ばかりかけてきた愛子を本気で叱る。一貫して父親の威厳を示せない父親と、少しネジの緩んだ娘とのコミュニケーションは、互いに言いたいことも言えずギクシャクする。

同じ頃、東京の通信会社に勤める優馬(妻夫木聡)はとあるビルの屋上プールで、男性だけのEDMパーティを楽しんでいた。仲間たちから二次会へと誘われるが、忙しいからという理由で断った優馬はホスピスに入院する母親(原日出子)を見舞う。彼女は末期ガン患者として、余命いくばくもない生活を送っていた。同性愛の息子は母親に自分の素性を話せないまま、限られた母子のコミュニケーションの時間を惜しむ。一方その頃沖縄では、高校生の泉(広瀬すず)が本土から沖縄の離島に移住してきた。この町で初めて出来た男友達の辰哉(佐久本宝)と無人島にやって来た泉は、開放的な雰囲気の中、1人だけで島を歩き尽くす。ここでも登場人物たちは自分の思い(欲望)を相手に対してぶつけることが出来ない。優馬も母親も、泉も辰哉も互いに言いたいことがあるが、その想いは無情にも宙を舞う。物語は千葉・東京・沖縄の3箇所を交差させ、描写していくが、滑り出しから中盤部分までの展開はやや硬い。その原因は吉田修一の原作が一貫して映画向きではないことにある。映画において、刑事ものというジャンルは往々にして刑事が捜査に当たる過程で、真実に近付くのが常であるが、今作は簡単に通り過ぎるはずのミスリードを宙吊りにしたまま、クライマックスまで観客の興味とミステリーの深淵とを持続する。都築雄二が手がけた山神のモンタージュ写真もミスリードに拍車をかける。

千葉の田代(松山ケンイチ)、東京の直人(綾野剛)、沖縄の田中(森山未來)との出会いがいずれも明らかに不穏な空気を奏でるのが、監督である李相日の映画的感性だろう。類型的なサイコキラーの描写は途端にミステリー映画としての快楽を著しく損なうことを理解しているように、各人の出会いの場面が素晴らしい。特に大雨の中、雨合羽を着て自転車を漕ぐ田代を、歌舞伎町から千葉へ帰って来た愛子が追い抜く場面の描写が圧巻である。日常に潜むサイコキラーを炙り出し、たった1つの真実に向かう過程で、間引かれた2つの重大な過ちが生まれる。今作がわかりやすい捜査モノの定型を外れるのは、南条や北見の捜査の進展以上に、千葉、東京、沖縄で田代、直人、田中の人間性を信じられなくなった周囲が、TV番組をきっかけに途端に色めき立つ様子に他ならない。閉鎖的な村社会で浮かんだ疑念は、時に愛する者さえも苦脳させてしまう。全体のバランスとしては、沖縄の描写に傾くあまり、優馬と母親の別れが曖昧なまま過ぎ去った感はあるが、凡庸に期した1時間が過ぎ、ラスト40分に向かったところから、映画的快楽は突然駆動する。一貫してここまで苦悩する渡辺謙の父親としての威厳と苦悩の落差も見事だが、貞操観念は薄いが、本質の部分で男を理解している宮崎あおいのメスとしての生物的な強さが素晴らしい。欲を言えば、7kg増量し、聖俗併せ持った宮崎あおいの徹底的な俗に対し、広瀬すずは対照的に聖の部分を担って欲しかったが、吉田修一の陰惨な原作は広瀬すずさえも突き放す。その結果彼女は是枝裕和『海街diary』や小泉徳宏『ちはやふる』シリーズで築いた聖女としての神話を今作であっさりと崩してしまった。

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