左翼の自分が教育について語ってみた!!!!!!!!!!!!!!!

あたりまえといえばあたりまえだが、教育というのは単に社会に役立つ人材を育成するためだけにあるのではない。企業内での人材育成ならばともかくも、公教育や生涯学習というのは社会に役立つ人材を育てる以上の機能があるのだ。それは人権保障としての側面である(堀尾輝久『教育入門』『人権としての教育』他)。言い方を変えると社会に役立てるためではなく社会から守るためにも教育は行われるということである。

ところで、社会というとあいまいなのだが、具体的に何から子ども(教育の対象は子どもだけではないが便宜上公教育を例とし「子ども」とする)を守るのか?

ひとつは国家である。マルクスは国家を資本主義社会における資本家の支配装置として位置づけた。それは極端としても、たとえ民主主義国家であっても、国家が全国民の意思を代弁することは到底できず、社会的に影響力の強い一定層の利益を代弁しがちなものであることは理解できよう。したがって、確かに国家は教育の質保障に重要な役割を果たすが、教育のすべてを国に委ねてしまうことは危険である。国家に教育を委ねるのでなく、「むしろ国家が荒々しい教育を受けなければならない」(マルクス『ゴータ綱領批判』)のである。実際、日本は戦前教育への反省もあって、分権的な教育制度を敷いている。教育において大きな権限は市町村教育委員会がもっており、基本的に教育委員会は首長からも独立しているとされる。ただし教育委員会問題は複雑なのでこれ以上は立ち入らない。

しかし、国家によるコントロールを退けるべきとはいえ、市場に教育を委ねるのは本末転倒といえよう。いわゆる新自由主義的な考え方は、近年公教育にも根を下ろしている。市場においては市民の声が反映されるとはいえ、その市場は持てるものと持たざるものとに分断されていることに注意せよ。

市場や資本家に支配された国家が駄目なら、学校、教員、親に大きな権限をもたせればいいのか? これもまた危険をはらむ。いうまでもなく学校や教員、そして親は子どもとは異なる世代に属する。したがって多かれ少なかれ、その世代の利益を代弁してしまうおそれがある。また現時点の利益ではないが自分の考える理想社会の実現を子どもに仮借するのも最悪だ(これはむしろ左翼に多い)。いわゆる「子ども中心主義」は子どもに未来を過度に背負わせる危険性があることに注意せよ(小玉重夫『シティズンシップの教育思想』など参照)。

ではどうすればよいのか? 残念ながら妙案はなく、国家、市場、学校・教師・親が均衡するようにバランスをとっていく他はなかろう。しかしいずれにせよ、大前提である教育は人権保障のための営みでもあることは忘れてはならない。つまり教育を受ける子どもの立場を考えなければならないのだ。もっともその子どもの立場とは何ぞやということをめぐって国、市場、学校・教師・親が争うのだが……。しかし大前提としてこの点が押さえられていなければならない。


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