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【アート#003】学び直し | ルネサンスのリベラルアーツ

やあ!コミュリーマンです!

 「何者だ!?」

と、お感じになる方がほとんどかと思いますので、気になる方については自己紹介目的の以下3つの無料記事にお目通しいただければ幸いです^^

#001【はじめまして】コミュニケーションが苦手でも大丈夫!自分に合ったコミュニケーションと出会う場所

#002【わがままに生きたっていいじゃない】わがままに生きるってどういうこと? |コミュリーマンが考える新しいわがままの定義

#003【失業者にはなりたくない】デジタル・AI革命時代に向けての「逃走者」ってなに? |コミュリーマンが考える「失業者」ではなく「逃走者」になる方法


サムネイル

お馴染みStable Diffusion Onlineに、「ジョット」と「キリスト教感」をテーマにして、ちょっと複雑なプロンプトを組んでみました。私は意外と悪くないんじゃないか?と思ったのですが、お詳しい方の意見がいただきたい><


「シリーズ、アート」

既に過去4回にわたって続けてきた「シリーズ、アート」も早いもので5回目。

過去全てにおいてほとんど「メディチ家」についてしか語ってこなかったものですから、皆さんからは

 「話を変えるな!」
 「アートを学べ!」
 「歴史は別シリーズを立てろ!」
 「ビスマルクは100年以上前のドイツ(プロイセン)だろ!」

などと散々なクレームをいただいて参りましたT T(ほんとボコられちまえ)



本当に驚いているのですが、閲覧数・スキ♡数共に、急上昇なんです!

なぜなのか特に【アート#000後半】ルネサンスの記事がすごい!!!

で、今気づきました!(本当に)

「メディチ家の功罪」が、私の記事の中で最も多いスキ♡数になっているじゃありませんか^^

皆さん、本当にありあがとうございます。

嬉しい気持ちをお返ししたいので、本記事も一定期間は無料とさせていただきますね♡

未読の方は是非ご覧になってくださいね^^

本当に、本当にありがとうございます♪

それでは参りましょうか^^

今回も元ネタは主に英語版Wikipediaです!

不足部分は論文などを引用しますが、一記事5,000字ほど&5時間ほどで執筆しますので、「足りねえ!」とお感じの部分はご愛敬ということでご容赦願います^^

さっそく、一緒に学んで参りましょう!


ジョット~ゴシックから初期ルネサンスへの移行期に輝いた男

ジョット・ディ・ボンドーネ(1267年頃–1337年1月8日)は、中世後期にフィレンツェ出身のイタリアの画家兼建築家であった。

 ✅コミュ:どちらかといえばルネサンス以前の中世の人ですね!

彼はゴシック/プロト・ルネッサンス時代に活動した。ジョットと同時代の銀行家で年代記記者のジョヴァンニ・ヴィラーニは、ジョットは「すべての人物像とその姿勢を自然に沿って描いた、当時最も権威のある絵画の巨匠」であり、公に認められた彼の「才能と卓越性」について書いている。

 ✅コミュ:すんっごい賞賛っぷりですね!金で雇われたのかな?(違うぞー怒られるぞー)

ジョルジョ・ヴァザーリ(引用辿れませんでしたが、おそらくミケランジェロの弟子?1511年生まれなので250年後の人かな?)「ジョットは、蔓延していたビザンチン様式と決定的に決別し、200年以上無視されてきた人生を正確に描く技術を導入し、今日私たちが知っている偉大な絵画芸術を始めたと述べた。」

 ✅コミュ:まーた!これほどまでの賞賛!これ絶対にミケランジェロまで続く200年余りの間を代々金で買ってきましたね、うん。(うん)


生い立ち

 ✅コミュ:1,200年頃なので、やはりはっきりしないですね。

伝統によれば、ジョットはおそらくコッレ・ディ・ロマーニャーノ(あるいはロミニャーノで、糸杉の丘という意)の農家で生まれたとされている。

 ✅コミュ:1850年以来、近くのコッレ・ヴェスピニャーノのタワーハウスには彼の出生地の名誉を主張する銘板が掲げられており、その主張は商業的に宣伝されているそうです。しかし、最近の研究により、彼がフィレンツェで鍛冶屋の息子として生まれたという証拠が文書で示されています。要するに、よくわからんようです^^

ヴァザーリは、著書「最も優れた画家、彫刻家、建築家の生涯」の中で、ジョットは羊飼いの少年であり、陽気で聡明な子供で、彼を知る者全員に愛されていたと述べている。

 ✅コミュ:この書籍でミケランジェロの弟子確定ですね^^

偉大なフィレンツェの画家チマブーエは、ジョットが岩に羊の絵を描いているのを発見した。その絵があまりにも本物そっくりだったので、チマブーエはジョットに近づき、弟子になってもらえないかと尋ねた。(その後にジョットの父にも嘆願しているそうな)チマブーエはトスカーナで最も有名な二人の画家のうちの一人で、もう一人は主にシエナで活動したドゥッチョであった。

 ✅コミュ:おお!ドゥッチョ登場!(意味?こうご期待^^)

ヴァザーリは、若い芸術家としてのジョットの技術について、そのような話を数多く語っている。チマブーエがワークショップに不在だったとき、ジョットがチマブーエの絵の顔に驚くほど本物そっくりのハエを描いたときのことを語っている。チマブーエが戻ってきたとき、彼はハエを払いのけようと何度か試みたそうだ。

 ✅コミュ:ごめーん!疑って悪かったヴァザーリ!ジョットのファンだったのかごめーん!

今日、多くの学者はジョットの訓練については不確かであり、チマブーエの弟子であったというヴァザーリの記述は伝説であると考えている。彼らは、ジョットがチマブーエの弟子ではなかったことを示唆する以前の情報源を引用している。ハエに関する話も、鳥がついばもうとするほど本物そっくりにブドウを描いたゼウクシスに関する大プリニウスの逸話と類似しているため、疑わしい。

 ✅コミュ:嘘かい!いくらファンだからってねえ!しかし、おそらくですが以下がその該当の絵だと思われるのですが、あながち嘘とも思えない気がしてきませんか?^^

ジョットのハエの絵は「パドヴァの聖アントニウス聖堂の祭壇画」に含まれています。この祭壇画の中の一つのパネルに、ハエが描かれています。ハエは聖アントニウスの試練と誘惑を象徴する要素として表現されています。この絵画は、聖アントニウスの奇跡や対話、誘惑との戦いを描いた物語的な構成を持っており、ジョットの技巧とストーリーテリングの才能を示しています。


ジョット・ウェディング

1290年頃、ジョットはフィレンツェのラポ・デル・ペラの娘、リチェヴタ・ディ・ラポ・デル・ペラ(「シウタ」として知られる)と結婚した。この結婚では4人の娘と4人の息子が生まれ、そのうちの1人フランチェスコは画家になった。

 ✅コミュ:おめでとう^^


政治っぽい記述

ここは気になる方だけご覧ください。(要約めーっちゃ大変><)

チマブーエは、アッシジ(現在のイタリアはペルージャにある都市)の新しい聖フランシスコ大聖堂にいくつかの大きなフレスコ画を描きに行くことになる。

おそらくここ、Google先生より

上教会にある聖フランシスコの生涯を描いた一連のフレスコ画の帰属は、美術史上最も論争の多いものの 1 つです。

 ✅コミュ:どういうこと?ここの記述がよくわからなかったー><

この時期の芸術的任務に関連したフランシスコ会修道士の文書は、ナポレオンによって破棄されていた。軍隊は大聖堂上部教会に馬を飼っていたため、学者たちはジョットの帰属について議論している。反対の証拠がない場合、現在イサクの師の作とされているフレスコ画を含め、明らかにチマブーエによるものではない上部教会のすべてのフレスコ画を、よりよく知られたジョットの作であると考えるのが都合がよかった。

 ✅コミュ:ちょっと体裁を整えましたけど、伝わるでしょうか?誤解を恐れずに要約しちゃうと「正直誰が書いたかわかんねーけど、ジョットが書いたつっといた方が箔が付くからそうしちゃおうぜ!」ということになるっぽいですね。これ以降はどれも結論が見えない記述が多かったので、本記事では結論は出さず「どうなんだろう?」と考える楽しさの一つとしていただければ幸いです^^


ジョットの絵の影響

コミュリーマンの説明から始めます^^

ジョットの作品は宗教的なテーマ性が強く、彼は宗教的な場面や聖人たちの描写において革新的なアプローチを取ったようです。

どういうアプローチか?

キリスト教を布教しようとしている時代ではあったのですが、民衆の識字率(読み書き力)が低かったようです。

だから仮に聖書があったとしても読める人が少なかったのです。

だからこそアーティストたちが絵でキリスト教を伝えようとしていたそうなんですが、その絵のメッセージもまた伝わりにくかったそうなのです。

そこで現れたのが、?

そう、ジョットです!

彼は人々の自然な仕草や目線などを用いて、登場人物に自然で人間的な感情を与えたのです。

更には遠近表現を使って人々を描くことで、画面に奥行を与え現実的な風景にしました。

こうしたことで宗教画が、より身近なものになり意味が伝わるようになっていったのです。


傑作

1.『パドヴァの聖アントニウス聖堂の祭壇画』(1302年 - 1305年): この作品はジョットの初期の代表作であり、パドヴァのサンタ・アントニオ教会の祭壇画として制作されました。この作品は多くのパネルで構成されており、聖アントニウスの生涯や奇跡的な出来事を描写しています。

英語版Wikipediaより


2.『パドヴァのスクロヴェーニ礼拝堂のフレスコ画』(1305年 - 1306年): ジョットはパドヴァのエンリコ・スクロヴェーニ礼拝堂にもフレスコ画を描きました。この作品は聖母マリアの生涯とキリストの受難を描写しており、ジョットの細部への注意と情感的な表現が際立っています。


英語版Wikipediaより


英語版Wikipediaより


ジョットの作品は、当時の芸術において革新的なスタイルを持ちながらも、古代の古典的な要素と組み合わせた独自の表現方法を用いていました。彼の作品はルネサンス期の芸術に大きな影響を与え、後の画家たちにも多くの示唆を与えました。


最後に

昨日(2023年6月20日)も同じことを書いてしまいましたが、一日に二記事は脳の疲労がすごいですが、これも筋トレだと思ってできる限り挑戦してみたいと思っています^^


それでは、また次回です。

コミュ力上げて、モチベを上げよう!
それが、本当になりたい自分になる第一歩です!

ありがとうございました!^^


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