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【アート#001】学び直し | まじめにおもしろそうなエピソードを探します | アートと書いておきながらメディチ家の話です

やあ!コミュリーマンです!

 「何者だ!?」

と、お感じになる方がほとんどかと思いますので、気になる方については自己紹介目的の以下3つの無料記事にお目通しいただければ幸いです^^

#001【はじめまして】コミュニケーションが苦手でも大丈夫!自分に合ったコミュニケーションと出会う場所

#002【わがままに生きたっていいじゃない】わがままに生きるってどういうこと? |コミュリーマンが考える新しいわがままの定義

#003【失業者にはなりたくない】デジタル・AI革命時代に向けての「逃走者」ってなに? |コミュリーマンが考える「失業者」ではなく「逃走者」になる方法


サムネイル

お馴染みStable Diffusion Onlineに、「メディチ家の功罪」をテーマに作成していただきました。


パトロン、メディチ家

メディチ家は著名なパトロンであり、芸術や文化の振興に多大な貢献をしました。

 「パトロンてなんだ?」
 「おまわりさんの仕事か?」
 「あれよ、機動○士パトロンね?」

いいえ、経済的な後援者のことです^^

「この子あらまあ天才ねえ!お金を上げるから、大成したら私がパトロンって言いふらしなさい、おほほ」

というイメージでしょうか^^(決してパ○活・マ○活をイメージしてはいけませんよ?)

ちなみに書く私もそうなのですが、お読みになられる皆さんはもっと大変なので、前後編に分けてみたいと思います。

分ける必要などないと感じる方は、どうぞ本記事のネタ元である英語版Wikipediaへ行かれてください。(読むのめっちゃ大変なんですあれw)

それではさっそく参りましょう!


歴史をさくーっと、メディチ家

権力への台頭

・1230 年の文書で初めて言及されていることから、スタートは13世紀前半のこの頃と考えることができる。

・「メディチ家」は、フィレンツェ北方の農村地帯ムジェッロ地域出身である。

・「メディチ家による王朝」は、1397 年にフィレンツェにメディチ銀行(1397 - 1494 年)が設立されたことで始まる。ちなみに、オーストラリアのウィーンに本拠を置く民間のメディチ銀行とは全く別である。

・13 世紀のほとんどの間、イタリアの主要な銀行の中心地はシエナであった。しかし ヨーロッパ有数の銀行家の破産を機に、シエナ市はイタリアの銀行の中心地としての地位をフィレンツェに奪われる。

・14世紀後半まで、フィレンツェの有力な家系はアルビッツィ家であった。そのアルビッツィ家に挑戦者していたのがメディチ家で、最初の主人公はジョヴァンニ・ディ・ビッチ・デ・メディチである。


ジョバンニ~最初の主人公~

ジョヴァンニ・ディ・ビッチ・デ・メディチ(1360年頃 - 1429年2月)は、イタリアの銀行家であり、メディチ銀行の創設者でした。ジョバンニによる家族銀行の設立は、家族がフィレンツェで権力を握るきっかけとなった。

 ✅コミュ:1230年からスタートしたメディチ家は、約140年後のジョバンニの成功によってその栄華を極めていくんですねえ^^ということは、映画ゴッドファーザー1のドン・コルレオーネ的な存在?

・3歳の頃に父を亡くし、叔父のヴィエリがジョバンニがフィレンツェの銀行システムでキャリアをスタートできるよう支援しました。彼は昇進を重ね、最終的にはローマにある支店のジュニアパートナーになりました。

・叔父のヴィエリ・デ・メディチは1393年に銀行をジョヴァンニの手に残して引退した。

 ✅コミュ:ということはジョバンニ33歳でスターへの一歩を歩みだしたようですね^^

・この時点から、メディチ銀行は急速に大きく成長した。この成長は、教皇首席銀行家としての買収で最高潮に達した。これは、メディチ銀行が教会の口座を扱うようになったということを意味している。

 ✅コミュ:とんでもない成長ですね!

・1397 年に設立したメディチ家の銀行が、ジョバンニの主な商業的利益となった。ジョバンニ率いるメディチ銀行は、イタリア北部の都市国家およびその他の都市国家全体に支店を持ち、初期の「多国籍」企業を構成していた。

ジョバンニは、 1418年(58歳)に、サン・ロレンツォ教会の聖具室の建設にも資金を提供した。 彼は建築家にブルネレスキを選び、彫刻の制作にはドナテッロを選んだ。これらは、ジョバンニが芸術界にもたらした多くの貢献のうちのほんの一部である。

 ✅コミュ:おお!ここでブルネルスキとドナテッロの登場ですか^^ニンジャ!(ごめんんさい、ミュータント・タートルズが好きなもんで)

・同年1418年、ジョヴァンニはフィレンツェの主要貴族と協力し、更には超高額な身代金を身銭で支払ってまで、ドイツに追放・投獄された対立教皇ヨハネ[1]23世の釈放を確保した。しかし解放後間もない翌年に他界している。
ジョバンニは、フィレンツェのサン・ジョヴァンニ洗礼堂に、ドナテッロとミケロッツォによって壮大な墓の建設するようを監督した。ちなみにこのときの現教皇マルティン5世は石棺の「前教皇ヨハネ」という碑文に対して抗議したが無駄だった。

 ✅コミュ:どうもぱっとしないのですが、対立教皇ヨハネ23世は、何やら異端・背信などの罪を着せられ、その全てに有罪判決を受けていたみたいですね。1378 年から 1417 年まで続いたカトリック教会内の西部分裂の時代でしたからね。あれやこれやとありそう。

・この前の年の1417 年に、教皇制度が単一の教皇のもとでローマに恒久的に設置されている。ジョバンニの支援に報いて、教皇マルティン5世はジョバンニの総支配人に使徒室の管理権を与えた。

・その後の教皇もメディチ銀行のサービスを利用し、さらにジョヴァンニは教皇庁から税収契約と多くのミョウバン鉱山の権利を確保することができた。

 ✅コミュ:ズブズブじゃないよね!?教皇=政治のトップのような人と、ズブズブな匂いじゃないよね!?

ジョバンニが成功した理由のもう一つに、ピッカルダ・ブエリとの結婚が挙げられる。ピッカルダはフィレンツェ出身の古代の家系、つまり貴族であるエドアルド・ブエリの娘である。1386年(ということは序盤に26歳)に大金を持ってジョバンニと結婚した。ブエリ家の資金援助はその後も続いた。

 ✅コミュ:ちなみに現代通貨に換算できませんでしたmm

ピッカルダは美しいことで知られていたが、ジョバンニは醜いことで知られていた。ジョバンニは高貴な家柄ではなかったため、この結婚はジョバンニとその子供たちに尊敬の念をもたらした。子供は4人おり、その一人が次の主人公となっていく。

・こうしてジョバンニは家族をヨーロッパで最も裕福な王朝の一つへの道に導き、それによってその後の文化的、政治的卓越性に向けて重要な前進を遂げていく。

ジョバンニは富が増大したにもかかわらず、メディチ家をフィレンツェの他の市民から引き離さないように熱心に努力した。彼は、自分と息子たちがフィレンツェの平均的な労働者階級の市民と同じような服装と行動をするように継続的に保証することにした。これは部分的には、自分自身や家族に過度の注目を集めたくないという彼の願望と、他の裕福な家族とは異な​​り、メディチ家が国民の支持を受け続けるようにしたいという願望によるものであった。

ジョバンニの希望は、法律との抵触を避け、フィレンツェの人々を幸せにし続けることで家族の良い評判を築くことであった。彼の気質は次のような著作からも理解できる。

「人々の平和を保つよう努め、強固な場所はよく手入れされている。法的な複雑な問題には巻き込まないでください。法を妨げる者は法によって滅びるからです。」

 ✅コミュ:いい人!?


政治活動

ジョヴァンニは生涯の大半を政治から離れて過ごしたが、フィレンツェのシニョリーアで享受していた名声と普遍的な人気のため、生涯を通じてさまざまな高職に就くことを渋々引き受けるよう促された。

彼の態度は、息子のコジモ(次の主人公)に宛てた著書の中に例証されており、「官庁を仕事場にしてはいけない。呼ばれるまで待ち、その後従順であることを示しなさい。」と書かれている。彼は1402 年、1408 年、1411 年にシニョリーアのプリオーレ(執行機関の最高責任者)を務め、 1421 年には法定の 2 か月間ゴンファロニエーレ(集団のリーダーの意)を務めた。 1407 年にはピストイア市の知事も務めている。

政治の分野において、ジョヴァンニは民衆の擁護者、そしてフィレンツェ貴族の手に負えない敵対者としての評判とメディチ家の伝統に忠実であり続けた。

1426 年、彼はシニョリーアで多大な個人的影響力を発揮し、フィレンツェの不公平で圧政的な人頭税をカタストに置き換えました。これはジョヴァンニが考案した特別な固定資産税で、税負担がフィレンツェの貧しい階級から移され、貴族がその取り分を逃れることがより困難になった。翌年、彼は再びシニョーリアでの個人的な権限と影響力を行使して、貴族が提案した寡頭制改革の可決を阻止した。この改革は、シニョーリアでの貴族の奉仕禁止を撤廃し、一部の下位ギルドの代表者から排除するものだった。

 ✅コミュ:最後よくわからないですよね?^^カタストが良いものなのか悪いものなのかは、意見が分かれるところです。一部の人々は、カタストが貧しい階級を保護し、富の再分配を促進したと考えるかもしれません。しかし、他の人々は、カタストが貴族からの富を奪い、貴族の権力を制限したと見なし、不正な税制として批判する可能性もあります。評価は個人の意見によるものであり、カタストの利点と欠点は論争の的となっているようです。


レガシー

1429年(没年)の納税報告書に示されているように、ジョバンニは、フィレンツェで最も裕福な人物の一人であった。具体的にはフィレンツェで2番目に裕福な人物であったと報告されており、莫大な富を残したことがわかってりる。

また、彼の死後、彼はライバルであるニッコロ・ダ・ウッツァーノまでもを含め、フィレンツェ国民の間で人気者となった。ニッコロはジョバンニの息子たちに宛てた手紙の中で、ジョバンニが家族を人々に愛され、大きな成功を収められるようにしてくれたと述べています。

ジョバンニは、フィレンツェのサン・ロレンツォ大聖堂の旧聖具室に埋葬され、4年後に妻も死後一緒に埋葬された。

1420年、ジョバンニは銀行の経営権の大部分を2人の息子、コジモとロレンツォに譲っている。彼の最初の息子コジモは、この富と銀行システムにより、ヨーロッパで最も裕福な人物の一人になりました。これはまた次のお話です^^


最後に

アートの学び直しがしたいんです、私!

前回の100円記事前半100円記事後半からスタートしています本記事。

で、ほぼ直感でルネサンスから学び直しをスタート、ルネサンスと言えばメディチ家でしょうと考えたんです。

最初、メディチ家の記事は前後編との二記事構成を考えていました(実際に本記事冒頭にそのように記載)が、とんでもないですね!

一記事5,000文字にまとめることを目標にしていますが、ジョバンニ編だけでいま4,500文字超えてますよ!?

どうなるのでしょうか!^^

本日はこの後にまた別の仕事が入っており、本記事は撮って出しならぬ「書いて出し」です!

見直しできておりません!

4時間くらいで書いています!

2023年4月より、山口周師匠(自称)を夢に掲げ、note鬼の平日毎日更新+アルファしてます!

それぐらいしても絶対に叶わないくらい難しい夢じゃないですか!?

立ち止まってなんていられないんですー!

けっこーーー大変!w

どなたか!

フィードバックください!

無料・コメント欄解放しますから!><

添削は不要!邪魔なんで!


それでは、また次回です。

てかもはやコミュリーマンしてないね!w

コミュ力上げて、モチベを上げよう!
それが、本当になりたい自分になる第一歩です!

ありがとうございました!^^


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