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自己紹介① 

初めまして、@commedazai です。自分のことを書いて発信するのは初めてです。
最初の一記事目。このnoteで文章表現の練習というか経験を積むために記事を書こうと、随分前に決意はしていたのですが何を書こうか迷いました。
「よしっ、やろう」と思い立った日は、新人賞に応募する小説を書いている時でした。この時、書いていた小説が思うように進まず、どうにかして足りない技術を磨く方法は無いかと苦心していました。

とにかく書けばいい。とは思っていたのですが、では何を書こうか? 書いたとしても話を書き溜めるだけで発信しないのは勿体無いと思い、アイデアが出るまで小説を書き進めつつ、よく利用するInstagramのストーリー機能で閃いたことを書き出してみました。

これを続けて一週間、小説が行き詰まりました。Instagramは何の関係もありません。原因は簡単、経験、技量と取材不足。話の全体像を作り、細かいあらすじを書いてプロット作成に移行したのですが、あらすじを練れていないといいますか、プロットに仕上げるための情報(ネタ)が少なくて毎回手が止まりました。

じゃあ、「取材して探せばいいじゃないの」という考えもあったのですが、応募締め切りが迫っており、焦った僕はネタが足りないまま「プロット→清書」へと強行突破しようと試みました。そして1ヶ月、1/3は終わりましたが締切には間に合いませんでした。(締め切りは2022年3月31日)

間に合わなかったものは仕方がないと来年の3月31日に目標を変えて、途中の小説を書きはじめました。半月経った頃ですかね、このまま書いていても一生終わらないと悟ったのは。昔から文学小説よりも漫画が好きで、文学に触れ始めたのがここ2、3年の話。文章で何かを伝えたり、表現したりする経験値が低すぎるんです。小説を書きたい!と思ったから小説を買うようになり読んできましたが、まだまだ一本の小説を書くには早かったようです。

だから路線変更して、このnoteで観察日記のように僕が見て触れて感じたものを素直に書いてみよう。1週間でどれだけ更新できるか分かりませんが、最低でも週一更新して1年も経てば、それなりに腕が上がっているのではなかろうかと思い至ったわけです。
以上が、noteを書こうと思った経緯です。

そして今回お話しする内容は、僕自身のこと。
実は僕、元料理人なんです。結構美味しい料理を作ったりできるんですよ!


料理:リブアイステーキ、ポートソース、インゲンのソテー、ポテトフライ


これはリブアイステーキを塩麹に一晩漬けてから焼いたもの。付け合わせはポテトフライです。ソースはポートワインを煮詰めたもの。

ザ・ビストロといった感じの料理です。これに合わせたお酒はフランス・ブルゴーニュの赤ワイン、品種はピノ・ノワールです。

ちなみにビストロとは、日本で言う居酒屋のことを指します。

さて、僕が元料理人であることの証明はできたと思います。料理人として働いていた頃の目標は、レストランを開業し、3つ星を獲得すること。獲得できるようなトップシェフになることを目標に邁進してきました。

そんな僕がなぜ、料理をやめてしまったのか。このことについてお話しさせて下さい。

料理人になろうと決めたのは高校1年の時でした。入学したのは偏差値の低い県立校、福岡県で下から二番の学校でした。学校に通っても勉強することに楽しみを見出せず、唯一楽しいと思えたのはクラスメイトと話している時だけ。けど高校受験で進路の決まらない不安を知った僕は、早めに進路を決めてしまおうと思いました。最初はゲームや漫画が好きだったので、工学系化・デザイン系の大学に進路を絞っていました。

しかし、家庭科の授業で調理実習があった時、普段自分で料理を作るように立ち回っていると教師が凄く褒めてくれたんです。何に対して褒めていたのかは思い出せませんが、それがとても気分良くて、自分を肯定された事が嬉しくて、進路を料理系に変更しました。ー 今思えば、親からも友人からも自分を認めてもらった経験が少なかった僕は、褒められることに飢えていたのかもしれません。

僕はすぐに調理学校が開催する体験入学を調べて参加し、進学先を探し出しました。最終的には大阪の調理師学校に入学し2年間、料理を学んだのちフランスへ1年留学することになります。

自分から好きなものに挑戦することは初めてで、不安もありましたが、楽しさの方が優っていました。元々、器用なので成長も早く、将来を期待される存在になれました。期待されるのは嬉しかったですね。ただ、純粋に料理が好きで続けられれば苦しむこともなかったんでしょうが。

 高校2年の時、祖母が亡くなりました。父方の祖母で、僕は昔からこの祖母のことを嫌っていました。当時は何で嫌いなのか考えもせず、嫌いだという感情を抱いているから嫌いだと結論づけていました。祖母が僕の探し求めてたものに気づかせてくれるまで、ずっと嫌っていました。

 僕が求めて止まなかったもの、それは「愛情」でした。
僕の両親は、限定的で、ある条件が揃わないと愛さない(愛することができない)人たちでした。打算的な扱いをする両親に対して、僕も同じように打算的な関わり方をしてきました。僕は幼い頃から親を家族を信じられませんでした。
しかし祖母が最後に示してくれた愛情は不思議と信じられる説得力がありました。

 祖母に会った最後の日、危篤状態だと聞いて病院へ向かいました。そこには、ベッドに横たわり発作が起きている体を看護婦に支えられ必死に苦しみに耐えている祖母がいました。祖母は癌の末期症状でした。「大丈夫ですよ!大丈夫ですよ!」という看護婦の声とともに、命を繋ぎ止めているような祖母の激しい呼吸が病室に響いていました。家族が駆け寄ると、祖母は震える手を持ち上げ一人一人の手を握って最後の言葉をかけていきました。僕の番になり祖母の手を握りました。力尽きかけている人とは思えない力強さで僕の手を握り返し、最後の言葉を紡ぎました。「拓の成長した姿を見守ってあげられなくてごめんね。」
 この言葉を聞いて、何て事をしてしまったんだと後悔しました。僕は祖母を避けていたのに、嫌っていたのに、祖母は僕を愛してくれていた。幼い頃はその優しさを素直に受け入れていたのに、いつの間にか信じられなくなっていた。自分がしてきたことを考えて、胸の内から凍りつきました。祖母の最後の言葉、息遣い、眼差しを見て、今まで一度も感じたことのない気持ちになりました。僕はこの時、無償の愛を抱いてくれていた人がいることを初めて知り、失う経験をしました。

酷く後悔した。祖母の死を無駄にしない為に、何かしたかった。だから一方的な約束をした。白装束を見に纏い青白かった顔に化粧を施され、敷き布団に横たわる祖母に向かって、「ミシュランの星を獲れるような、トップシェフになる。」と誓いました。それからは進学先を福岡市内ではなく、日本一の調理師専門学校に変更し、高校を卒業して大阪へ行き、僕は「料理人として生きる。」覚悟を胸に料理人の世界に足を踏み入れました。

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