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病み散らかしていた時期とそこで得られたもの。

大学に入ってからの3年間は、ひたすらに病んでいた時期だった。

病み始めた理由としては、ひとえに受験の失敗と家族との軋轢が重なってしまったことが大きかったのだが、もう一つ挙げるとすれば、人生における目標を失ってしまったことが最大の理由だった。

大学には、特待生として学費を免除してくれる、という名目のために入った。だから、大学に行く意義はまったく感じられていなかった。はっきり言って学部の勉強には一切興味がなかったが、学費のためだと思い授業はきちんと受講し、それなりの成績も残した。結果として、4年間の学費が免除されることにはなったのだが、学問的に得られるものはほとんどなかった。

なにも得られない、好きなこともできないというがんじがらめの状況のなか、僕はだんだんと生きることそのものへの意義や目標を失っていった。ただ、のうのうと過ごすことだけは嫌だったので、いろいろな活動に手を出し、そこで右往左往し、失敗した。そのたびにいちいち悩み、「なぜ誰も理解してくれないのか」、「どこでなにを間違えたのか」と考えては眠れぬ夜を過ごした。今思えば、当時親しくしてくれていた人にとっては、なぜ僕がそこまで悩んでいるのか、そもそも何を考えているのか、見当もつかなかっただろう。それに、悩んでいるときは周りが見えなくなることも多々あり、そのたびにそれらの人々を傷つけてしまったとも思う。そのせいで離れてしまった人も、きっといたはずだ。

悩んでいるうちに、哲学という学問に出会った。哲学を学んでいるうちに、自分が抱えている悩みと同じような悩みを、かつての思想家たちもまた、それぞれに悩んでいることを知った。もっと学びたいと思い、哲学のゼミに入った。哲学のゼミに入ったあともそれなりに右往左往し、どの思想家を扱うのか、なにを研究したいのかなど、教授に申し訳ないくらいあっちこっちしてしまっているのだが、それでも、一つの軸ができたことは間違いない。哲学は僕の「生」と確実につながっているという実感があり、それは今でも変わっていない。ショーペンハウアーは「生への意志」を説き、キルケゴールは「絶望は死に至る病だ」と言った。サルトルは「実存は本質に先立つ」と言っている。その言葉のどれもが、僕の「生」の実感を貫いている。どれもこれも、僕がこうして悩んでいることを正当化、というか、認めてくれている気がした。

しかし、僕は決して、「悩んでいたけど哲学に出会えてよかった」などと言いたいわけではない。むしろ、正直に言って、哲学に出会ったことで事態は確実に悪化した。悩むことを正当化された(というか、そう感じていた)ことで、余計に悩み始めた。困ったものである。

前の恋人には、「病まなければすぐ次の人ができるよ」と言われた。「病まなければ」という言葉が胸に刺さった。というか、実質そのとき初めて、自分が「病んでいる」ことを実感として知った。人は闇のなかにいるとき、闇の存在に気付かないものである。たしかに僕はいろいろ考え、悩んでいるという実感はあったが、「病んでいる」とは思っていなかった。

それからは意識的に悩むことをやめた。というか、一つの結論だけを残し、悩むことを中断した。悩んでいることで、周囲にもいろいろと迷惑をかけていたのだろう。誰かの害になるくらいなら、悩まないでいるほうがいいと考えるようになった。哲学的なことを考えることはそれはそれで行うとして、人生がどうとか、どうやって生きるかとか、そういった悩みから離れることを決意した。

ちなみに、その結論というのは、「自分の『生』は自分で掴み取るしかない」というものである。

しばしば、幸福、あるいは不幸とは、自動車事故のように突然、不意に出会ってしまうものだと言われるが、それは僕の生の実感とはそぐわない。幸福は天空の城ラピュタの序盤でシータが偶然落ちてくるような、あるいは隕石が衝突してくるような、そんな形で得られるものではない、と思っている。むしろ、サルトルが言ったように、自分の「実存」は自分で選び取らなきゃいけないのだ。

そのように考えるようになってからも、繊細な性格も相まって、考え込んでうずくまってしまうことは何度もあったし、はっきり言って、なにもしなくても突然幸せが降ってきてくれるのなら、それ以上によいことはない。しかし、実際問題として、そんなに都合のいいことがあるかと言われれば、ほとんどないのが現実である。だからこそ、自分がその時々で望んでいると感じたものを、ひとつひとつ掴み取っていくしかないのではないかと思うのである

さて、このnoteを始める前は、こんな中二病くさい文章を書いてどれだけの人が見てくれるのだろう、と考えたり、自分の心のなかを打ち明けることに及び腰になっていた部分があって、正直なところ、怖かった。しかし、かつての自分が必死になって悩んでいたことを公開したとき、自分が考えていた以上の人からスキをもらえたりして、うれしかった。少なくとも、スキをくれた人にとっては、なにかが心の琴線に触れたということなのだろう。

言葉というのは不思議なもので、ときに人を鋭く突き刺し、傷つけてしまうこともあるが、ときにそれは絆創膏となって、癒してくれることもある。心に残った言葉は、いつまでも頭に残り、あとになってじんわりと効いてくることもある。このnoteは、はじめは好きなことを書こう、とにかく、病んでいた時期の総決算をしようと考えて始めたし、根本的なところでそれは変わっていない、また、変えてはいけないとも思っている。でも、もしそれが僕の知らないところで、知らない誰かの心にいい意味で残ってくれるのなら、それはそれでうれしいと思う。おこがましいようだが、この記事をきっかけに少しでも「同じような人がいる」と思ってもらえたり、あるいは、前を向くなにかを掴めたりした人がいたら、それ以上によいことはない。

ただ、言葉には、自殺直前の人を引き戻すような力はないとも考えている。だから、僕の言葉が誰かを死から救えるなんてことはない。ただ、僕自身の願いとして言えることは、もしなんらかの形で悩んでいる人や病んでいるような人が、たまたまこの文章を見たとしたら、同じように悩んだ人がいるということも知ってほしいのだ。悩んでいるときは意味もなく孤独だと考えてしまうものだが、同じ世界には同じように悩んでいる人が必ずいる。それに、哲学者として歴史に名を残したような人たちは、自分の「生」についてめちゃくちゃ悩んだからこそ、現代にまで名を残しているのだ。あなたと同じように悩んだ人なんて歴史上、山のようにいる。そう考えるだけでも、少しは気が楽にはならないだろうか。悩むこと自体は、悪いことではないのだ。それは、自分の「生」に対してきちんと向き合っているということなのだから。

最後になるが、「人は人を救えない」と言われることがある。そして、僕も同じようなことを考えている。先にも言ったように、結局のところ、自分の「生」は自分で掴み取るしかないし、自分のことは自分で救うしかない。ただ、誰かが必死になってその人自身を救おうとしているとき、その手助けをすることはできる。僕は「哲学者」と呼ばれる人たちのような生き方はできず、これからも平凡な形で生きていくのかもしれないけれど、そうやって苦しんでいる人に対して少しだけ背中を押せるような人になりたい。かつていろんな思想家たちが、僕にそうしてくれたように。

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