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価値観について

ある瞬間、突然に、自分の価値観が過去のものから大きく変わっていることに気づく。

最近、自分のある価値観の変化に気づき、ショックを受けた。ショックを受けた、と言うとなんだかネガティブに聞こえるが、つまりは、自分の知らない変化に驚いたのである。過去の自分では考えもしなかったことを、今では当然のように受け入れているという事実に対して。

だが、実際にそのような変化に気づくことはほとんどなく、価値観は僕の知らないうちに勝手に変わっていることがほとんどだ。そのきっかけは、なにかしらの人生における事件によるものかもしれないし、誰かとのふれあいのなかで徐々に変わっているものかもしれない。

例を挙げるとすれば、これは僕の場合だが、かつて僕は、一生、誰とも一緒にいられないし、誰もきちんと愛することもなく、愛されることもないのだろうと思っていた。より具体的に言えば、恋人や配偶者がいることへの意義をまったく見いだせなかったのである。それはひとりでいることが好きだったというのもあったが、なにより、人生経験として、あまり愛されたという実感を得ずに生きてきてしまったというのが、主な理由としてある。

しかし、こう考えると矛盾だが、好きな人ができ、その人と付き合うことができ、同じ時間を過ごしているうちに、おそらく考えが変わったのだろう。あるとき、突然、「あれ?ちゃんと恋人のこと好きじゃん。なんなら愛されてるじゃん。」と気づき、自分の価値観が大きく変わっていることに驚きを隠せなかった。今では、恋人も配偶者も人並みには欲しいと思うくらいにはなっている。考えると不思議なものである。

「動的平衡」という言葉がある。「動的平衡とは、物理学・化学などにおいて、互いに逆向きの過程が同じ速度で進行することにより、系全体としては時間変化せず平衡に達している状態を言う。」とwikipediaには載っている。なんのことやら、という感じだが、つまりは、全体としては変化がないように見えても、ミクロな部分を見ればそこには様々な変化や葛藤があり、それらがバランスをとることによって、全体としてのひとつの個体ができているのである。僕は、価値観とか考えもこのような性質を持っているのではないかと思っている。

なんてことのない毎日を過ごすなかでも、生きている以上、人間にはさまざまな情報が入ってくる。そのなかで、価値観は絶えず揺らぎや葛藤にさらされ、ときにそれは入れ替わったり、あるいは、ぶつかり合って新しい価値観が生まれたりする。そうやって僕らの価値観は絶えず変化しているけれど、ひとりの人間のしての僕自身はあまり変わらず、今日も明日も僕は僕である。今日会った友達と仮に明日もう一度会うとしても、その友達に僕が僕としてきちんと認識されるのは、全体としての僕はあまり変わっていないように見えるからである。しかし、細部に目をやれば、そこには必ず些細な変化がある。些細な変化も継続すれば、大きな変化になり得る。そして、自分がその変化に気づくのは、そうやって自覚できるほどに変化が大きくなったときである。

ときに、価値観が決定的に変わるようななにかがあったりもするが、そんな事件は人生に数回あるかないかだろう。やはり、自分の価値観を全否定されるような事件が人生には時折起こるし、僕もそういう経験はある。でも、日常的にはやはり、価値観は徐々に変わって行くものだと思うし、僕の価値観の大半はそうやって醸成されたものなのだ。これからも、きっとそれは変わっていくだろう。なんなら、この、価値観についての価値観も、変わってしまうかもしれない。それはそれで、ありだと思う。

なんてことを書いてはみたものの、こんなことを考えるのは自分自身をやたらとメタ的に認知して分析しているせいで、ほとんどの人はこんなめんどくさいことを考えないのかもしれない、とか、これまためんどくさい考えていたら深夜になってしまったので、このへんで終わりにします。話がややこしくて反省してます。ごめんなさい。

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