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なぜ生きるのか?という問い

眠れない日が続いている。

少なくとも、目をつむって2、3時間くらいは眠れない。ベッドで横になって、少し経ってスマホを開き、1時間くらい寝られずに過ごしてしまったことにショックを受ける。それを何度か繰り返すと、朝の4、5時くらいにはなっている。そして、朝日が出てきていることにまたショックを受ける。

毎日そんな調子なので、否が応でも小難しいことを考えてしまう。「自分はなぜ生きているのだろう」という問いは、そんな難しい問いの代名詞である。

僕としては、「なぜ生きるのか」と問うこと自体は非常にナンセンスなことだと思っている。なぜなら、人間は誰に頼んだわけでもなく生まれて、そして死んでゆくものだからだ。僕が生まれ、そして死んでゆくことそれ自体には、意味は介在しない。ときに、「あなたは生まれてきたくて生まれてきたのだ」なんて言う人がいるが、こっちとしては、こんな人生は願い下げなのだ。別に生まれてきたかったわけではないし、頼んでもない。「生まれてしまった」から仕方なくこうして生きているだけなのである。つまり、「生まれる」ことも、この人生を歩んでいるということも、結局は偶然性の賜物であって、その事実自体には意味はないのである。

しかし、そのように考えていても、「なぜ生きるのか」という問いは必ず頭をもたげてくる。多くの人がこの問いについて、一度は考えたことがあるはずだ。「生まれてしまった」ことがたとえ自分の意思とは関係のないことだとしても、この人生が偶然の産物だとしても、それらを「引き受ける」上ではやはり、「なぜ生きるのか」という問いを避けて生きることは難しい。反対に言えば、「なぜ生きるのか」という問いは、偶然に縛られた人生をいかに生きてゆくのか、ということと直結しているのである。

「なぜ生きるのか」と問うことは、言い換えれば、「自分の人生に意味はあるのか」と問うことである。先に述べたように、生まれてきたことそれ自体に意味はないと、僕は思っている。しかし、それを突き詰めてしまうと、いわゆる人間らしさが消え去ってしまう。たとえ僕の人生が偶然の産物だとしても、そこにある程度の必然性は存在するし、なにかを必然にするために人は行動するものだ。

例えば、ある人と出会い、その人を好きになったとしよう。その人と出会えたことや、好きになったことについては、偶然かもしれない。しかし、その人と付き合えるように努力し、それが叶ったとしたら、それは「付き合う」という事象を必然的なものにしようとした、意思の結晶なのだと思う。なにも行動せず、偶然に身を任せて誰かと付き合えることなど、ほとんどないからだ。

「なぜ生きるのか」という問いの答えも、そういう「偶然を必然にしようとする」ことのなかにあると僕は思う。それは就職でも、結婚でも、子供を産むことでも、なんでもいいのだが、ある偶然の出会いを自分の力で発展させたところに、意味のようなものが存在すると思う。

例えば、僕には「人助けをしたい」と考え、消防士になった友人がいる。その友人が仮に、「人助けをする」ことを「人生の意味」だと捉えているとしたら、その友人は限られた選択肢のなかから消防士という職業を選び取って、その選択に「人助けをする」という意味を付与したことになる。彼が得られた選択肢の範囲は、たしかに偶然によるものだったけれど、彼は自分の意思で一つを選び取って、発展させたのだ。

だから、「なぜ生きるのか」という問いの答えは、人によってまったく異なるものになる。ある人は「子供を育てる」ことかもしれないし、ある人は「世界平和」かもしれない。スケールの大きさの違いはあれど、それらに優劣はない。人生で出会えるものは人によって違うし、たとえ同じものに出会ったとしても、そこに意味を見いだせるかどうかは人によって異なるからだ。

「なぜ生きるのか」という問いの答えは、まだ僕には見つかっていない。それに出会えた人はきっと幸せだろう。正直なところ、僕には一生見つからないような気もするのだが、それはそれでいいと思う。でも、いつかは「これだ!」と思えるものに出会い、それを掴み取るために努力し、そこに「人生の意味」を見出してみたいとも思っている。そんな日を夢見て、今日はぐっすりと眠りたい。



眠れない日が続くと妙にネガティブになって、うだうだと毎日を過ごしてしまいます。自分でも見るに見かねて、ついにアマゾンでアイマスクを買いました。それにも関わらず、ふと思い立って記事を書いていたら深夜になってしまい、結局夜ふかししてしまっています。夜ふかしが習慣化しているのでしょうか…。みなさんは早く寝て、良い夢を見てくださいね。
ではでは。

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