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ただの日記 #3 コロナ渦の基本的人権

Wikipediaで、父親が今年60になることを知った。

歪んだ眼鏡を直したり、何ヶ月も買うのを迷っていたイ・ラン の「悲しくてかっこいい人」を探しに本屋に行ったり、まとめて外出しようと思ってチャリを出した。や、最近お金使いすぎてるし、(良いことじゃないけど)先にブックオフに寄ってから本物の本屋に行こう、と思って、眼鏡屋とは反対の方向に向かった。

ブックオフには、欲しかった本が全然なかった。ウィリアムバロウズの「裸のランチ」とか、あるかなーと思ったのだけど、全然なかった。代わりに、辞めた同期が好きだと言ってた「月と六ペンス」にした。既に家には、読みかけの本がたくさん散らばっている。そっちを片付けてからにしろよと思うけど、本屋でまとめ買いしたくなるのはいつだって、今みたいに一冊に集中できないときだ。

最近はもうどこも、レジには透明のシートが店員と客を分断している。大学のときの知り合いがストーリーにあげていたけど、カルディではマスクをしていない人は入場できなくなっているらしい。仙台で就職した友達は、東京に帰ってくるときに約束をしていた人と会うのを自粛するべきか悩んで悶絶している。絶妙な距離感を保っている好きな人。たしかに、この状況とそうなる前とでは、恋の進度も結果も、だいぶ変わってしまうのかもしれない。でも、どっちの方がいいんだろう。互いに言わないけど会いたくて会いたくて仕方ない気持ちがコロナで阻まれているとしたら、収束して会えた暁にはかつてなく燃え上がりそうな気もするけれど。と無責任なことを考える。

何れにせよ、今どれくらい外に出るかとか、好きな人と一瞬も会っちゃいけないのかとか、それはやっぱり個人に委ねられているべきなんじゃないかとは感覚的に思う。感染したらまた医療関係者の負担が増えるし、自分の周りの他人の制限も増えるから、単なる「自己責任」論では語れないのがやっぱり難しいところだけど、やっぱりそれでもやらないといけない「緊急性」や「重要度」って、当本人にしか分からないことだし、本人しか判断するべきじゃない、と思う。感染しなかったとしたって、経済的な死が足音を立てて近づいてくる中で、継続していいかどうかの判断基準が「その事業そのものの喫緊性」だけになったら相当に酷い。「それ」で生きていかないといけないのは皆同じなのに、「こんな大変なときにエンタメなんか」とか「ケーキ食べなくても生きていけるでしょう」とか、そういうことはそれを生業にしない人が言っていいことではないと思うし、同じ理由で休業しなかったパチンコ店の店名が晒しあげられたことはものすごく不愉快だった。パチンコなくていいだろ、とは個人的に思ってるけど。でも、だからこそ「誰もがなんとか生き延びる」ことを迫られているときに、事業の内容に優劣をつけてモラルを振りかざして断罪するのは間違ってるんじゃないか。

清算していたら、すごい音で雷が鳴った。慌てて店を出たときにはもう遅くて、道行く人は皆傘をさしていた。眼鏡とイ・ランは残念ながらお預け。
急いで家に帰ったら、おばあちゃんからの手作りマスクが届いていた。それと一緒に、帰省の時に忘れて帰ったわたしのパンツも。


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