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トレンド予測とアナロジー地獄

自分の趣味のひとつにトレンドを予測することがあったりする。"トレンド"というよりニュアンス的には時代の"雰囲気"や"ムード"と言った方が近いのかもしれない。映画やドラマ、音楽におけるMVやジャケットからピンときたイメージをパズル遊びのように整理して、2~3年後に流行するであろう雰囲気やムードを予測している。

それが結果としてファッション的なルックなのか、音楽なのか、映像作品なのか、どのようなアウトプットとして世に出るかまでは予測し得ない。ある種の"時代の空気感"や"人の気分"を感情曲線的にキャッチして予測し、それらが言語化、大衆化されるのを静かに見守っている。それが仕事で役立ったこともあったし、何故か好評で褒めてもらったこともある。

ちなみに自分は服は好きだが特にファッション・オタクだとは自認していない。映画などについても同じく。あくまでも表層的なイメージからアナロジーを見つけていくのが好きなだけ。どちらかと言うと感覚的にはジオ・ゲッサーに近い気がする。

事例のひとつとして最近リバイバルを果たした"Y2K aesthetic"の予兆的なものを2017~2018年頃から追いかけていた。そして、僕が予測していたものが「〜 aesthetic」というコアジャンルを指す言葉で呼ばれていると、この2~3年ほどで知った。

aestheticは美的価値観を意味し、ジャンルというニュアンスより時代や現象などの持つ共通イメージの小さな一群のようなものだ。例えば、Pinterestの検索窓に年代など特定のワードの後ろにaestheticと入力すると出てくるように現在も無数に生成されている。Y2Kを追いかけていた方々にとっては常識だが、リバイバルが一般化する数年前から以下のブログ『Y2K Aesthetic Institute』ではリファレンスが収集、紹介されていた。このブログをきっかけに"aesthetic"という言葉を知ることになった。

自分はaesthetic化(言語化)される前の抽象的なイメージや元ネタ(になる予定のもの)を見つけてきては「これがあと2年したら流行る予定だから今のうちに着ている」と言って恋人や友達を苦笑させたことが何度もある。

だが的中した頃には「え、本当に流行りそうなんだけど」と驚かれるが、僕自身かなり関心が移ろいやすく天の邪鬼な人間なので「もう今は興味ない」と吐き捨ててしまう。特に最近のY2Kに関しては。

たしかに90s~Y2Kリバイバルの到来を予測していた2010年代後半は無邪気だったし、リアルタイムで予定通りに成就されるリバイバルを体感してみるとリファレンスの答え合わせに楽しみを覚えてしまう。一方で、時間の流れを順行しているだけにも見えてしまう。「過去を順番に沿って消費しているだけなのか」とガッカリしてしまうこともある。だってトレンドをアルゴリズムに食わせて、それを元に衣類としてデザインが生成され、グローバルに流通するような時代を生きているんだから。

20年の歳月を経て"新しいルーツ"として再発見され、定着する過程が現在なのだとも思うが、今日の超加速的なメディア環境の中で記号的に循環、消費される資本主義リアリズム的な辛さを痛感してしまうことが多くなった。その上、同時多発的に生成され、日々結合と分離が繰り返されているため負い続けることも困難だと感じた。
※ここら辺の話題は竹田ダニエルさんの『世界と私のAtоZ』でも最新の事例を含めて解説されているので参照してほしい。

大好きなK-POPのビジュアルイメージも自分のPinterestのフィードを眺めているのとあまり変わらないと思うことも多い。中の人と自分のフィードはきっと同じようなイメージがレコメンドされ、同じようなピンが並んでいるんだろうなと感じる。

なんだかんだ書いてきたが、自分の振る舞いは口うるさい老害ムーブなんだろうか。冷笑的なんだろうか。そう思いながら最近は00年代のファンタジー作品のリバイバル予測が的中し始めているが、やはり飽きが来始めてしまった。リバイバルやリファレンス探しにワクワクする一方で、この円環をぶち壊してくれるような何かを待っている。


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