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【自己紹介その6】田舎暮らしを志すようになったマイ・ストーリー|・・・~松本てつあき編

こんにちは。寄居町地域おこし協力隊の松本てつあきです。
寄居町に移住するに至ったマイストーリーの第6弾をお届けします。ある意味で、今回と次回でご紹介するエピソードが、マイ・ストーリーとして一番重要なターニングポイントになります。

さて。

前回は、奥多摩への移住に至る、ちょっと不思議なエピソードをご紹介しました。

後から思えば、奥多摩は僕がイメージする“半農半X”の“半農”を実践するための地としては合っていませんでした。しかし、この移住に至る体験が、今にしてみれば大きな学びをもたらしてくれました。この学びが無ければ、今の僕の立ち位置は無いと言っても過言ではありません。

今回は、そんな学びのプロセスを振り返ってみます。

▼過去のマイストーリー記事は、こちらでまとめてチェックできます。

奥多摩暮らしで得た学びについて

住んだ家から最寄りの川井駅で

奥多摩への移住は、いざ決まってしまえば、期待に胸が膨らむイベントでした。腹が決まるまではモヤモヤと悩みましたが。

とはいえ、今にして思えば、この移住は、移住という観点で言えば失敗でした。移住後のイメージが十分に定まっていなかったからです。とは言え、そこの課題に対する自覚も無かったので、結果として、そういった方向性などを考える期間となりました。

さて、奥多摩は「東京の秘境」などともあだ名される地域です。大半が山林なので、東京とは思えない濃密な自然が残っています。そこに身を置く日々は、自分を癒してくれるものでもありました。

同時に学びにもなりました。

そのことを語ろうとすると、今回、初めてお読みくださっている方には、いきなり不思議な話題になったとお感じになるかもしれません。直観や身体知を人生に活用する方法を学んだからです。体験を通じて。

直観や身体知から生じている流れに自らを乗せてみる。そのような、一見すると受動的な生き方が、自分で想像できていた以上の、想いや願いを実現してくれる。そういう絶対的な信頼感を育むことができたわけです。

これを、どう言い表せば良いのか分かりません。積極的受動性と言えばいいのでしょうか。

現代社会では、能動的であることに価値が置かれていますね。自分も、その中で育ったのもあり、なかなか、この感覚を掴むのは時間がかかりました。お読みの方でも、ここでご紹介している感覚に抵抗を感じておられる方もいらっしゃるかもしれません。

誰にでも大きな選択を迫られることがあります。

そんな時に、どうやって自分にとって最適な選択をするか。そのことに対して、方程式のようなものが仕上がっていきます。

それができるようになったエピソードがいくつかありました。そこを今回は綴ります。

自己紹介その5で綴ったエピソードもその中の一つですが。

それらの中でも比較的インパクトの大きかった2つのエピソードをご紹介します。

台風を経て湧き上がってきた考え


一つ目は、2019年10月に台風19号がきっかけです。

関東を直撃して、各地で河川が氾濫しました。川崎・武蔵小杉のタワーマンションで、全棟停電なんてニュースが話題になったのも、この台風です。

この時に「内なる声」に従って生きることが明確になりました。

「内なる声」について:日本におけるコーチングの第一人者の一人として知られる榎本英剛さん、著書の『本当の自分』の中で提唱しているもの。非常にざっくりとしたご紹介をすると、根拠なく心の中に浮かんでくる考えです。それに耳を傾けてみる。(詳しくは、是非、手に取ってお読みになってみてください)

台風直撃に備えて、実家に戻りました。幸い、実家は雨にも地震にも強いロケーションにあるからです。それでも、家が揺れるほどの突風にはヒヤヒヤしましたが……。

そんな台風が過ぎ去って。奥多摩に戻ってみたら、すごい光景が待っていました。

幸い、住んでいた家は特段のダメージはありませんでした。しかしながら、いつも散歩したりしていた川の遊歩道などは、所々流されていたりとズタボロ。川辺の遊歩道や橋が消えてまったものもありました。水位が4~5mは上がったようで、頭の上にある木の枝にシートが絡まったりしています。


上が普段/下が台風直後
流された遊歩道
流れに一度沈んだ木

この変貌した姿に身を置いていると、こんな考えが湧いてきます。

「もう奥多摩を離れる時が来ているのだ」

理屈では説明ができませんよね。ですから、何度も何度も考え直しました。でも、何度考え直しても、その声は揺るがず、むしろ強化されていく。自分の思考のほうが説得されていくかのよう。

「それなら」と敢えてその声を受け入れ、台風から1ヶ月もした頃には、次の春で奥多摩を離れることを決意していました。

すると、面白いもので、次の住人がスルスルと決まったりして、状況はどんどん奥多摩を離れる方向に進んでいきます。

余談:奥多摩には不動産業者がいません。そのため、口コミの紹介で見つけていくと、大家さんもハッピーです。僕が入居する時も、そのような流れで、前の住人から引き継ぎました。
このスタイルにはメリットがありまして。居抜きのようなことができるのです。不要になったけどまだ使える家電や家具など、そのまま残して、次の住人にあげてしまうことができることです。お互いに引越しの荷物が減らせます。もちろん、退去前にリストをお渡しして、要不要を伺っておきましたが。結果として、殆どの品は、そのまま残ることになりました。
不動産屋さんを経由したら、こんなことできませんよね。

まとめ

奥多摩での学びに関するエピソードの一つ目を今回はご紹介しました。その7では、もう一つのエピソードをご紹介します。

振り返れば、奥多摩を離れることになった(台風の翌年の)春は、あのコロナが日本で広がり始めたタイミングです。

今にして思えば、絶妙なタイミングで奥多摩を離れ、故郷の北鎌倉に戻ることになりました。

あの混乱した社会状況で地元に戻れたというのは、幸運なことでした。コロナが始まってからでは、思うように奥多摩から動けなかったことでしょう。

それにしても、奥多摩を離れることを決意した時点では、まだコロナはニュースになっていませんでした。まさか、あんな事態になるとは誰も予想していなかったと思います。「内なる声」はそのことを知っていた? みたいに思えてしまいます。

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