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ストローから未来をのぞいてみよう!

 5月のカラフルデモクラシーでは、東京都唯一の村(島嶼部除く)、檜原村に出向き、麦わらストローの作成などを行っている方にお話を聞きかせていただいた。

 緊急事態宣言下という事もあり、集落を通り抜けるのを避け、少人数で山を通り抜けて会場として貸していただいた檜原村某所へ。合計3時間ほどの登山はやや疲れたが気持ちがよかった。途中、道の片側と反対側で植林された林と、原生林がはっきりと分かれている所などがあり、林業に詳しいメンバーの話から、日本の林業の抱える課題などにも話が及んだ。いつか機会があれば、また掘り下げてみたいテーマだ。

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   (画面左側と右側で植生がはっきりと違うのがわかる。)

 今回話を聞かせていただいた清田尚博さんは、檜原村に住み、村役場の仕事やキャンプ場の運営、麦わらストローの作成などを行いながら、都内でデザインなどの仕事も行う、2拠点型の生活を実践なさっている方だ。かつては都内でバリバリ働いていたシティーボーイだったという清田さん。なぜいま、東京の田舎、檜原村で生活しているのだろうか。

3年生の時、田んぼのあぜ道が嫌になった?!

 清田さんは、九州は福岡のご出身。ご実家は山の麓にあり、毎日田んぼのあぜ道を歩いて学校に通う生活を送っていたそうだ。小学校3年生の頃にあぜ道の通学路が嫌になり、中学受験をして町に出ることを決意。小学校5年生からは勉強に勤しんだ。

清田さん 小6になった頃にはもう友達がいなくなっていましたね。そりゃ、同じクラスで中学受験する奴なんていなかったのでね。それで、小6で男子のやつらにはみんなにはぶられてね。昼食の時間になったら女の子に呼ばれて、女の子と飯食べていましたね。だから女の子が好きです。

 中学は家から1時間ほど電車を乗り継ぎ、福岡ドームの近くの学校に通った。通学の為に購入した定期を使い、途中下車して繁華街で沢山遊んだという。CDを買いに行ったり、ラーメンを食べたりして街を満喫した。

 高校は進学校の公立校へ。帰宅部だったが友達とバンドを組み活動した。放課後は友達とマクドナルドやカラオケボックス、バンドスタジオなどで溜まった。

 高校卒業後、一浪してから東京の大学に進学した。4年間大学に通い、新卒で三菱重工に就職。工場で事務職の仕事をした。

清田さん 新卒で、三菱重工っていう会社に入りました。いろいろ作ってる会社です。海外の発電所とかプラントとか、いろんな国に行きたいと思っていたので、それで入ったんだけど、配属されたのは相模原の車両をやってる工場でした。そこは、戦車とか、フォークリフトとか作ってる工場で、そこで3年半くらい働きました。僕は文系だったんで、事務系の仕事をしていました。販売会社からのオーダーを工場に流したり、納期の管理とか、販売会社とお話したりが主な仕事でしたね。

 その後、清田さんは、そのまま会社に勤め続けることに違和感を覚え、転職をなさったそうだ。これから何10年間も働き続けるのであれば、もっと自分の感覚にあった仕事がしたい、と感じるようになったそうだ。

清田さん 当時は基本的に年功序列で一つの会社に長く務めるっていうのが、大きな会社の前提だった。それを考えたらね、目の前の50、60のおじさんたちが、将来の自分ですよね。そういう人たちを見ていて、ちょっと違うのかなーって思っちゃったわけ。もう生活が会社だけなんだよね。そんなに何十年も仕事するんだったら、自分の興味のあることとか、感性に合ったもの、感覚に合ったものを仕事にした方が楽しいんじゃないかって思ったの。もっと広い世界を見てみたいなぁとも思ったしね。それで、仕事をやめて、もともとデザインとか芸術とか、そういったクリエイティブなものに興味があったので、半年くらい浪人してムサビ(武蔵野美術大学)の大学院に行って、デザインを学ぶようになりました。当時はMBAに進む奴らも多かったけど、これからはデザインや感性の時代だと思ったのね。そして実際に今そうなってるね。

3.11、都市の脆弱性を目の当たりに・・・

 大学院卒業後は都心でデザインに関わる仕事をずっとなさっていた。しかし、2011年3月11日の東日本大震災が大きな転機となる。都市の脆弱性を目の当たりにし、考えが変わっていったそうだ。

清田さん 例の2011年の東日本大震災の時、渋谷の取引先の会社のオフィスにいたんだけど、すごい揺れてね。窓の外見たら、セルリアンタワーがすごいグラグラ揺れていて、あ、ヤバイなって思って、それで外に出た。当時自転車で通勤していたので、自転車で池尻のオフィスに戻ったの。246号線が通勤路だったんだけど、もう車がぎゅうぎゅうでね、帰宅難民の列がずーっと歩道を歩いていましたね。
 あの時、一週間くらいは都市の機能が戻らなかったんですよね。スーパーとかコンビニに行っても物がない。車に乗っている人たちは、ガソリンスタンドに何時間も並んでたりとかした。電気も当時は計画停電がありましたね。そういう事があったりして、都市の生活基盤の今まで見えなかったリスクがいっきに見えたわけですよね。機能がストップすることによって見えてくるものがある。都市に住むっていうのは、いろんな見えないインフラに支えられて便利な環境で生きているんだけど、そのことが逆に緊急事態になるとリスクになるというのをすごく実感したんですよね。
 こういった事を考えたときに、本当に人間に必要なものってなんだろうと考えるようになったんです。ひとつはやっぱり水ですよね。水・空気・食べ物、まあエネルギーもそうだけど、そういうものを、都市にまるっきり依存するんじゃなくって、自分も別のところにバックアップを持っておいた方がいいんじゃないかなっていう気づきを得たんです。

 その後清田さんは仕事仲間と共に、東北に復興の支援に出向くようになる。週末、夜行バスで東北に向かい、瓦礫の除去や農家の手伝いなどを行った。この時、農業をした体験が、清田さんに自分でも畑を持ち、空気や水のきれいなところに生活の基盤を持ちたい、という思いを持たせた。

 清田さんが檜原村に来た一番の決め手は秋川の美しさだったという。美しく、近くの多摩川上流に比べるととても穏やかで、遊べる川だと感じ、檜原村を選んだ。

清田さん 空気がきれいで、環境がいいバックアップ先をどこに持つかって言うのをいろいろ検討した。やっぱり東北の、300キロ400キロ離れているところに毎週往復って、すごく大変でした。体の負担が結構多くて、だいたい1年間で10キロくらい痩せました。それで日帰りで通えそうな都心から50キロ圏内に決めて、近いところで探そうと思ったの。都心から50キロだったら、千葉とか埼玉の方とか、まあ、西多摩ですよね。そこら辺を見て回って、やっぱり秋川が一番きれいだったんですね。東北で津波の被害とか見ちゃっているので海のそばに住みたいっていう感じじゃ無かったですね。それで山のちかく、檜原に来ました。「東京の村」っていうのも面白いかなと思って。

 最初は地域おこし協力隊に応募した。だが、兼業が不可能だったことなどから不採用。しかし、その時の縁で役場の非常勤職員として採用されることが決まり、当初は村営住宅を借りて移住した。現在も役場の観光に関わる部署で仕事をしている。

生活農業??

 当初からやりたいと思っていらっしゃったという畑。現在はご自分の畑を持って栽培を行っていらっしゃるが、そこに至るにはハードルがあったそうだ。

清田さん 畑は欲しかったんだけど、最初は住まいが村営住宅だったので、自分の畑は持てませんでした。当時は観光協会に出向してたんだけど、そこでエコツアー的なことをやろうと思って、近所の畑を借りて、農業体験なんかを協力隊の仲間たちとやっていましたね。農地って誰でも借りられるわけじゃないんですよ。
 本当は農地法で、代々農業をやってる家か、農業法人でないと日本の農地って借りたり所有したりできないんですよ。農業委員会っていう各地の組織があって、そこが取り仕切っているんです。村にきて3年目に、「いい物件があるよ」と、当時の観光協会会長でもあり役場1階カフェのマスターをしている方に教えてもらいました。農地もついてて山もちょっとついてたので、即購入しました。それでやっと、畑を持ったって感じです。

 こうしてバックアップ先を手に入れた清田さん。実際に田舎に移住し、都会では見えなかったものが見えてきたという。

清田さん やっぱ都会の人は、情報過多ですよね。野菜に関してもいちいち有機無農薬かどうか、何処の農家さんが作ってるか、ってすごい気にしますよね。僕もそうだったんだけど、自分で畑をやり始めて、結構頭でっかちになってたなっていうのを感じましたね。
 山とか見ていても植物がいっぱい生えていますけど、人間が植えたものって杉や檜以外ほとんどないですよね。人間が世話したものはほとんどない。農業もそんな感じでいいんじゃないかなって、思いました。それで、なるべく手をかけないで、上手く育ったやつだけ食べようっていう方針でやっています。いわゆる農業やってるおじさんたちは、ちゃんと雑草抜いて耕運機で耕して、きれいにやるわけだけれど、別にそれやらなくても生えるんですよね。なんでああいう風にやるかっていうと、管理しやすいから。なんで今の農業が機械を使うのかっていうと、やっぱ少ない人数、少ないエネルギーでいかに収量を上げるかっていうゲームになっているからなんですよ。そのためには、絶対機械化した方がいいですよね。なるべく広い四角い農地を持つと、機械を入れて、きれいに種まいたりすることが出来るわけです。
 でも、僕がやっているのは家庭菜園の延長みたいなものです。僕は生活農業って呼んでいます。実際、村のおばあちゃんとかおじいちゃんとかは、生活の延長で農業をやっているわけですもんね。別に自分が農家だからとか、農業やってるっていう意識もないはず。ただ自分が食べるものを作ってるだけ。すごい習慣化されています。生活の一部として、3食食べて風呂入って寝る、そういうレベルで畑仕事やっているので、とても自然だなあ、いいなあ、と思いました。

 確かに都会に生活していると、生活の基盤になくてはならないはずの農業を身近に感じることは少ない。都会では隔離された農と生活が田舎ではまだともに生きているところもあるのだ。

ストローはもともと麦わらという意味!!

 現在清田さんは麦わらストローの製作と販売を村の農業仲間と行っていらっしゃる。なぜ、麦わらでストローを作ろうという考えに至ったのだろうか。

清田さん 麦は強いんですよ。根っこが結構深いらしくて、畑を耕してくれるんです。畑を作ったばかりにやる作物としてはいい。それから檜原村は昔から麦文化だったんです。村に来てもらうとわかるけど、田んぼがないですよね。山間地でも田んぼをやっているところは、棚田を作ってきれいな水田を作っていますけど、檜原村にはそう言うのは無い。みんな麦を主食にしていたんです。近所のおじいさんとかに聞いても昔は麦やっていたっていうしね。それなら多分地域・気候、それから土壌にもあってるんだろうと思って、畑を作ってまず麦をやりました。1年目、色々使えるかなと思って小麦を植えました。500平米くらいやって取れた小麦が、1袋60キロの米袋に1.5袋くらいしか採れなかった。それをさらに小麦粉にすると、3分の1くらいになるんですよ。これじゃあ食を賄いきれる量ではないなと思った。それにショックを受けていた時にプラスチックストロー問題の報道が出始めて、あ、なんだ、だったらストローもやろうかなって思ったんですよね。ストローってもともとは、麦わらっていう意味だから。

 始める前に、取らぬ狸の皮算用で計算したところ、とても儲かることが分かったという。だが、実際はそうはうまくいかない。「まだまだ試行錯誤ですね」と清田さんは言う。収穫した麦わらは乾燥させ、村のおばちゃんに協力してもらってカットする。それを煮沸消毒し、乾燥させて出荷するそうだ。特に苦労するのは収穫した麦わらを乾燥させる段階だという。

清田さん 麦は秋に撒いて初夏に収穫するんですよ。10月、11月に種をまいて、収穫できるのが5月末か5月頭。それで収穫したと思ったらすぐ梅雨が来るんですよ。麦はお米と同じで刈った後に乾燥させる必要があるんですよ。
 梅雨時に乾燥させるっていうのがすごい大変。広い農地とかビニールハウスとかを持っている農家さんはハウスの中でやれば問題ないんですけど、なかなかそのちゃんと乾燥できる場所を確保できない。それが今の課題ですね。なので、そんなに大量には生産できないですね。

  清田さんは当初、都会の飲食店にどんどん使ってもらおうと思っていたという。だが、やはり麦わらのストローは使い捨ての物と比べるとコスパが悪い。通常の飲食店で使われているストローは1本0.5円程度だ。だが、清田さんの作る麦わらストローは1本あたり20~30円だ。環境に対する意識の高いところでないと、なかなか使ってもらえない。

 清田さんはこれから、地域の喫茶店などに積極的に使ってもらい、地産地消を進めたいと考えているそうだ。せっかく環境に良い商品を作っても、輸送機関を使って遠くまで運ぶのでは本末転倒だからだという。価格についても検討中だ。2022年4月からプラスチック廃棄物の削減をめざす新しい法律が施行されるのも追い風になる。

都市と田舎の循環・・・

 清田さんはこれからは都市と田舎の循環が1つのテーマだと考えているそうだ。

清田さん かつてはモノも人も循環していたんだよね。でも今は人は循環せずに止まってる状態だよね。昔は川の流域ごとにそれぞれ文化なり社会があった。でもそれが、鉄道が出来て道路が出来て、それで新しい流れが出来たんだよね。あれらはもう新しい川みたいなものだと思うんだよ。地形的に川の下流部分に都市が発生することが多いわけなんだけど、結局今はそこにいろんなモノや人がたまっちゃっている状態だよね。それが都市の一極集中や地方の過疎化といった問題を生んでいるのが現状だと思う。水が溜まって淀むみたいに。
 私は川魚がメタファーとして面白いと思うんですよ。川魚って循環しているって知っていますか?河の上流部で出産産卵するサケやマスやヤマメ、河口部で産卵するアユなど何種類かいるんですけど、みんな川の上流と下流を循環しているんです。

 都会か田舎のどちらかで生まれて育って、成長してどちらかに行って様々な経験をして、また戻ってくる。そんな循環が生まれたらいいのではないかと清田さんは言う。

清田さん 若い時は都会でもまれた方がいいんじゃないですか?だって、ずーっと田舎にいるのもつまんないだろうし、出会いもないと思うのでね。若い時は都会が面白いと思いますよ。もうやることが明確に決まっている人は、田舎にいてもやることはあると思いますけど・・・。

全部外注化する都市の生活

 「生活の場に、生産の場を!」も清田さんが言っていらっしゃることの1つだ。以前に別の記事で読み、気になっていたので聞かせていただいた。

清田さん 都市の生活って、今までの人間の生活習慣の中にあったものをどんどん外注化する生活なんですよね。まあ考えてみると、もともと生活の中にあったものが、どんどんビジネスやサービスに置き換わっているんですよ。僕が都会に住んでいて、住む場所にはどんなものが必要かなと考えた時、ベットルームだけでいいんじゃないかなーって思ったんだよね。ベットルームとトイレさえあれば、あとは全部町にあるんですよね。スーパー銭湯もあるし、レストランあるし、コンビニは冷蔵庫みたいなものですからね。
 全部外注化してしまう、外に出してしまう生活。それが都市の生活だと思います。本当だったら自分でやんなきゃいけないことも、お金に任してるんですよね。だけど、田舎に来るとそれが全部自分に戻ってくる。自分でまたやんなきゃいけないことが増えてきますよね。ミニマルな生活っていうのは、田舎じゃあ絶対できないですね。生活するにもいろんな道具が必要ですから。木を切るためにのこぎりが必要だし、ものづくりにも道具がいる。そういう事を考えると、とてもそんなワンルームでは無理。だからもともと田舎の生活にはそういうのが組み込まれていたんだよね。村のおじいちゃん、おばあちゃんなんか、金使ってないですよね。なんでも自分たちで作れちゃう。


 清田さんのお話を聞いていて、とてもスケールの大きな図が頭の中に浮かんだ。かつて、狩猟採集の生活を送り、自然の一部として生きてきた私たち人間は、いつの日からか、自然から少しづつ距離を取って生きるようになってきた。そうして文明を発達させ、今では自然のほとんどない都市を地球の中に創り出し、多くの人がその中で生きている。

 確かに都会の生活は便利だ。たいていのものは手に入るし、娯楽にもあふれている。とはいえ、都会も万能ではない。生活の糧の生産の場を自分たちの生活の中から排除して成り立っている都会は、周りの支えがなくては生きていけない。また、とても繊細で複雑な人口物の上に成り立っている都会は、地震などの自然災害に見舞われたとたん、機能不全に陥る危うさを秘めている。

 地方の過疎化、都市の一極集中、環境問題、相次ぐ自然災害・・・。こういった、私たちの世代が避けては通れない課題を考える時、自然と人間との関係、生産の場と生活の場との関係について、今一度思いを巡らせてみる必要があるかもしれない、そんなことを清田さんのお話を聞いて考えた。

 人間が発展してきた道を逆戻りすることはできないだろう。でも、今まで進んできた道を、これからも突き進もうとする前に少し考えたほうがよいかもしれない。

 帰り道、バスを待つ間にお土産屋さんで清田さんの麦わらストローを見つけ、購入した。それが冒頭の写真である。ガラス瓶に入った麦わらストローはとてもきれいだ。瓶には麦を蒔いた日、収穫した日、カットした日などが書いてあり、このストローが自分の手元に届くまでの道のりに思いが及ぶ。

 檜原村のきれいな空気を胸いっぱい吸い込んで、電車に乗り込み帰路についた。電車に乗って「新しい川」を下る。車窓の外に流れる風景に、人工物が増えていくのを眺めながら、まだまだ未熟な若鮎の私は、これからどんな風に生きていこうかな、と思いを巡らせた。



 清田さん、ありがとうございました!

                (記事作成:松浦 薫・黒野 優喜)


 今まで活動やメンバーの写真などは掲載してきませんでしたが、今年度からより活動の内容をリアルにお知らせするため、掲載していきます!

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清田さんとの集合写真。画面中央が清田さん。

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山頂でのメンバーの集合写真。このほかに2人のメンバーがいる。


 どうぞ引き続きよろしくお願いいたします!

             Colorful democracy 一同


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