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3.11から10年 ~ 震災と復興を考える ~

 東日本大震災から今年で10年。被災地から離れた東京に住んでいる僕の中にも非常に大きな印象を残しているあの災害は、多くの被害をもたらし、10年という月日がたってもなお、復興は終わっていない。

「みんな、今日地震があるかも、と思って集まっている?」

 そんな投げかけから話を始めたのは、3月のカラフルデモクラシーの集まりのゲスト、助さんこと吉村誠司さんだ。助さんは阪神淡路大震災以後、長年にわたって災害復興支援に携わっていらっしゃる方だ。助さんは災害が発生すると国内外問わずすぐに駆け付け、発災直後の支援から、その後の復興に至るまで、長いスパンで被災地に関わり続けていらっしゃる。

 今回はそんな助さんをゲストにお迎えし、3.11についての話を中心に、日本に住んでいる限り決して他人ごとではない自然災害と、そこからの復興をテーマに考えた。

特技は自転車

 助さんの特技は自転車に乗ることだという。多くの皆さんは「そんなの私にだってできる」と思ったかもしれない。僕もそう思った。しかし、助さんの自転車歴は並なものではなかった。

 高校1年生の時、北海道を自転車で一周したそうだ。テントや寝袋で生活し、時には生ごみと間違えられてカラスの大群に取り囲まれたこともあったという。

 大学生の時、海外に行こうと思い立った。1985年1月、19歳だった助さんはフィリピンに行った。その前年、フィリピンを史上4番目に強い台風が通過し、大きな被害をもたらしていた。助さんは一度帰国したのち、その年の8月には仲間とともに再びフィリピンを訪れ、現地の人たちと一緒に汗を流し、村の再建に関わった。この時の経験から、現地に行かなくてはわからないことが沢山ある、という事を実感したそうだ。

 第二次世界大戦中、フィリピンは一時日本に占領されていた。戦闘中には戦闘員だけではなく民間人が多数殺害されていた。息子や娘を殺された母親たちは、当時やってきていた日本人たちと同じ年頃の助さんたちに初めは近づいて来ようとしなかったという。しかし、助さんたちが何年も通って働くうちに、少しづつ近づいてきて、戦時中の話をしてくれるようになったそうだ。中には涙を流しながら「あの時の事はつらくて忘れられないが、あなたたちをみていたら許すことができるようになった」と話してくれたおばあちゃんもいた。「いたるところに生きた記憶があるんだな」という事を体感したそうだ。

 その後助さんは大学を1年休学し、世界を旅した。目的地はインド。インド独特の死生観に興味を抱いたそうだ。まずはアメリカにわたりマウンテンバイクでカナダへ向かった。余談だがカナダからアメリカへ戻るとき、密入国し捕まったそうだ。「国境なんていい加減なもんだよ。プロレスのリングみたい。自転車担いでよっこいしょって乗り越えられちゃう。でも、密入国はしないほうがいいと思うな」と助さんは笑う。

 アメリカからヨーロッパにわたり、各国を回った。まずはデンマーク、スウェーデンに行き、そこから南下してドイツへ。ドイツからオーストリアを抜けてスイスへ行き、吹雪に見舞われ死にそうになったそうだ。イタリアなどを経てギリシャに行き、そこからエジプトにわたった。サハラ砂漠を自転車で走ろうと思ったが・・・・。「砂漠は自転車で走るもんじゃないね」。ごもっともです・・・・。

 インドでは、手持ちの荷物をすべて盗まれた。パスポートや飛行機のチケットを含めたすべてだ。荷物をすべて失って、インド社会の底辺で生きる人々と町を歩き、見えるものが変わったという。「これからインドへ行く人には、ほとんど荷物を持たずに行くことをお勧めしたい。見えるものが全然違います。」と助さんはいう。なかなか勇気のいることだが、機会があったら試してみよう。

 25歳で大学を卒業した助さんは、なんと市議会議員選挙に立候補。見事当選を果たす。日本に住む外国人の人たちの安全を守りたいというのが、大きな動機だったそうだ。一期目の任期がもうすぐ終わるという頃に、阪神淡路大震災が発生。助さんは次の選挙には出馬しないことを表明し、現在のように災害発生時に駆け付け、重機などを駆使してボランティア活動を行う団体を作った。

 2003年にイラク戦争がはじまると、神戸にいた助さんは「ヒューマンシールド神戸」という団体を立ち上げる。当時、戦争が始まったイラクにあえて多くの外国人が入国した。アメリカの元海兵隊員や第二次世界大戦で戦った兵隊らがイラクに向かったのだ。イラクに多くの外国人が入国するとアメリカは爆撃ができない。それを狙った活動だった。助さんたちの「ヒューマンシールド神戸」もこの活動に関わった。

3.11発生後、すぐに被災地へ

 2011年3月9日、東日本大震災の前震と考えられている三陸沖地震が発生する。助さんは「次がこないといいな・・・。」と思いつつ、いざというときの為に車に支援に必要な物資を積み込んでいた。2日後の3月11日の午後、助さんは実家のある東京・国分寺市で東日本大震災を体験する。発生後すぐに車に乗り込み、夜中には宮城県石巻市に到着した。山の向こうで火災が発生しているのがみえたという。後に分かったことだが、この火災は石巻市の日和山という山の麓の、人口6000人程度の町で発生した火災で、約550人が亡くなっている。助さんは「コンビナートが燃えているのかな」と考え、石巻を通り越して気仙沼に入った。後で石巻の被害状況を知り、被害が大きい地域の情報は入りにくいのだな、という事を実感したそうだ。

 翌朝の気仙沼では多くの人たちが行方不明になってしまった人を探していた。気仙沼でも火災が発生していたが、消防隊は消火活動をしていなかった。燃えている場所には生きている人がいないと思われたからだ。優先事項は、生きている人がいないであろう場所を消火することではなく、生き残った人たちを探すことだった。

 その日はとても寒かった。助さんの車についていた温度計はマイナス7度を示していた。仮に津波にのまれ、生き残っていたとしても、濡れた体でそんな寒いところにいたのでは、やがて死んでしまう。一刻も早く生き残った人を探す必要があった。

 台風で堤防が決壊した被災地へは、カヌーで入っていき救助活動を行うことができる。しかし、津波の被災地には瓦礫などが溢れかえっていて、カヌーで入れる状況ではなかった。最初の一週間は、度重なる余震と津波警報が出るたびに撤収しつつ、瓦礫をかき分け救助活動を行った。

 その後、助さんたちは石巻に向かった。石巻には、家ごと流されはせず、一階のみやられてしまったような場所が多い。だが、宮城県の死亡者の半分近くが石巻の人々だった。助さんたちは建物の一階に突っ込んだ車などを、ユニック車(クレーンのようなもの)を使って取り除く作業などを行った。この作業を行うことで行方不明者の発見が早くできるようになる。行方不明者の確認がすべて終わったところで一般のボランティアが入って、家の中の瓦礫や泥の除去を行い、家を元の状態に戻す作業を行う。

 これらの初動の支援活動がひと段落したのち、復興にはかなり時間がかかるだろうと考えた助さんたちは、一般社団法人OPEN JAPAN を立ち上げる。この活動では、自動車メーカーの協力を得たカーシェアリングの取り組みや、津波で被害を受けた古民家を再生し、カフェにするプロジェクトなどを行った。キッズプロジェクトでは、被災地の子供たちを夏の長野県野尻湖に連れ出し、キャンプを行った。目の前で津波を体験した子供たちは、「水が怖かったが、今回湖で遊んで、水に自分から飛び込むことができたのが何より嬉しい」といっていたという。

進まぬ心の復興と国の施策の課題

 国はこの10年間で32兆円の復興予算を使い、東日本大震災からの復興に取り組んできた。震災発生当初、国が想定した復興期間は10年間だったが、延長が決まり、今後5年間でさらに1.5兆円の復興予算が投入される見込みだ。これまでの予算の内訳をみると、防波堤や道路などへの割り当てが大きく、一定の成果が見られるようだ。だが、朝日新聞の調査によると、被災直後に思い描いた復興後の地元の姿と比べて、現状が「とても悪い」「やや悪い」と答えた人は49%にのぼる。分野別の質問では、学校・保育、道路や鉄道の交通網、住宅では評価が比較的高いものの、「地域のつながり」は評価が低く、「全く復興していない」「あまり復興していない」が計53%にものぼる。

 ハード面の復興は一定程度進んできているものの、地域のつながりといったソフト面での復興は依然として大きな課題が残っているようだ。この点についても現場に関わり続けている助さんに聞いた。

 津波の被災地には、防波堤ができたといっても戻ってくる人は少なかったそうだ。戻ってきていても、現在でも小さな地震が起きるたびに、津波の被災地の人々は高台に避難しようとし、大渋滞が起きるなど、心が復興していない人は沢山いる、と助さんは言う。

 国の行った施策にも、課題が多いという。金銭面やハード面での支援、復旧は進んだが、それが必ずしも人のつながりや生業の再建にはプラスに働いていない部分も多いそうだ。

 例えば、防波堤の建設は国の予算で行われた。再建する集落の安全を守るために計画されたものだったが、地元の漁師さんたちの中には反対意見も多かったそうだ。漁師さんたちにとって、海が見えるという事は非常に重要な事なのだ。彼らはその日の海の状況を見てその日の漁の計画を決めてきた。防波堤ができると海が見えなくなってしまい、それができなくなってしまうのだ。

 また、地震が発生し、津波が来るかもしれない、という情報がでると漁師さんたちは船に乗り込み、沖に船を出す。津波が発生する前に津波の向こう側に出てしまうのだ。船を港に泊めておくと到来した津波に押し流され、他の船や家とぶつかり合って壊れてしまう可能性が非常に高い。大事な商売道具である船を守るために、漁師さんたちは高台への避難が呼びかけられる中であえて沖に船を出すのだ。

 この「沖だし」が堤防を閉められてしまうとできなくなってしまう。これも漁師さんたちが堤防の建設に反対した理由だった。

 また、かさ上げ工事に時間がかかりすぎ、当初戻ろうと思っていた人たちが、避難した土地での生活を作り上げてしまい、戻ることができなくなってしまった。大規模なかさ上げが行われ、新しい町ができたものの、なかなか人が戻ってこない現状がある。

その後も各地の被災地へ!

 助さんたちOPEN JAPANは緊急支援隊を作り、東日本大震災に限らず、その後も自然災害の現場にすぐに駆け付け、支援活動を行っている。

 公的な救助隊は住民全員の安否が確認されると、任務が終了になり帰ってしまう。しかし、重機やチェーンソーなどの道具があればつぶれた家の中から車を引き出したり、位牌などの大切なものを取り出すことができる。助さんたちはこれらの道具を持って駆け付け、救助隊が去った後も継続して復旧を支援している。その活動は日本にとどまらない。ネパール地震、パキスタン東部地震、中国四川省地震など世界各国で発生した災害の被災地にも駆け付け支援活動を行っている。

学生にもできるボランティア!

 被災地で自分たちにできることなどあるのか・・・。そう思うかもしれないが、学生にもできることは沢山あると助さんは教えてくれた。

 学生だからこそできる事も多いそうだ。被災地へ大人がボランティアに行くと、営業に来ているのではないか、なにか見返りを求められるのではないか、と現地の人たちに怪しまれることもあるという。学生はそういった不安を取り除く役割を果たしやすいそうだ。また、3.11の時も、仮設住宅ができた時に学生の発想が功を奏したことがあったという。仮設住宅はどれも同じに見えてしまいお年寄りは迷子になりやすかった。大人たちは番号を書けばいいのでは、と考えていたが、ボランティアの学生のアイディアで絵を描いた。大人にはない新しい発想だった。

 また、瓦礫の中から鍵などの貴重品を取り出すときにも、危険な家の中に入り込んで取り出したものを、受け取る役割もとっても重要だそうだ。この役割は十分高校生でも務まる。

 ボランティアに行くとき、地元の社会福祉協議会に行きボランティア保険に入っておくといいそうだ。ボランティア保険は、ボランティア活動中に怪我をしたり、携帯を壊してしまったときなどに使える保険だ。

 また、以下のようなものを用意しておくと良い、と助さんは教えてくれた。自分の身を守るための道具だ。「自分の身を守れなければ人の事を助けられないからね。」と助さんは言う。

 ヘルメット、革製などの頑丈な手袋、安全靴(ホームセンターで買える。つま先などは落ちてきたものであっさり折れてしまうそうだ。それを防止するための靴である。)踏み抜き防止インソール(頑丈な鉄が入っている中敷き。釘などを踏んだ時に足を守るためのもの)、笛(万が一、ボランティア活動中に瓦礫の中に閉じ込められてしまったときに、自分の居場所を知らせるため。圧迫されていたり、周りが騒然としていると声は役に立たないことも多い。)これらの物を日ごろから用意しておくといいそうだ。

 自分が行っても何も役に立たないのでは、と思うかもしれないが、行けば必ずできることがある、と助さんは言う。

 阪神淡路大震災の時、自分にも何かできるか、とやってきた線の細い学生に、助さんは「おまえ数、数えられるか?」と声をかけたそうだ。数を数えることができたその学生には、炊き出しに並んだ人の数を数えるという仕事を依頼した。その日、並んだ人の数を把握することが、翌日以降の食材確保の為に重要になるからだ。

 自分が危険なところに入らなくてもいいし、重いものを持たなくてもいい。コーディネーターのような役割も重要になるから、学生でもできることは沢山あるよ、と助さんは教えてくれた。


 私たち日本人は、日々自然災害と隣り合わせの生活を送っている。被災地は特別なところではなく、そこに住んでいる人にとって「普通の場所」だった場所が、急に被災地になる。だから、被災地に行くとそこにいるのは普通の人たちだよ、と助さんは言う。

 これからも必ず日本各地で発生するであろう自然災害と向き合い、決して他人ごとで終わらせないためにも、ボランティア活動に行く、という事は大事な事かもしれない、と思った。


助さん、ありがとうございました!

                  (記事作成:松浦 薫)

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