見出し画像

オースティン、テキサス──留年生の出稼ぎ日記〈タスコ編〉

崖の上のタスコ

(前略)ドライヴはいったんメキシコ・シティーからそこをかこむ高原に昇り、あらためて下降してゆく道すじのものだった。こちらがあくまで晴れわたっているのと矛盾せず、向うはグレコの絵の空のように悲劇的な嵐が吹き荒れ、そのさらに向うはカラリと晴れている。徹底して広大な空のもと、深い谷から谷へと辿るドライヴは、まさに冥界への下降のような気がした。運転してくれたアルゼンチン人の助手は、──この峠で、いつもプラトンの神話的な異界の道程を思い出す、と話しもしたものだ。(後略)

大江健三郎『人生の親戚』(新潮文庫)

 テキサスはアメリカ・メキシコ国境間に位置しており、ロスエンジェルスのようなアメリカ主要都市へ渡るよりも、むしろ南下してメキシコに入国してしまうほうが安く済む。せっかく車も購入したのだし、ドライヴで国境越えという日本では経験できないことをしてみたい、と思ってはいたものの、国境付近に屯するギャングを理由に周りから軒並み反対され、渋々飛行機で向かうことになった。
 飛行機を降りてからはバスに乗る、メキシコ・シティは山々に囲まれた谷間の都市であり、そこから抜け出そうとすると山を登り降りするほかない、彼方まで緑が続く雄大な山脈をおぼろげに眺めながら、引用した大江健三郎の一節を思い出しつつ、バスに揺られ続けていた。
 しばらくすると、急勾配の山に沿う形で建てられた白壁の家々が前方に現れ、ついにタスコに到着する。傾斜地に合わせて建てられた、白と橙の二色で統一された街並みだけでも心躍るものがあるが、実はタスコへ来た理由はそれだけではなかった。

山頂付近にある十字は、展望台にあるキリスト像

 かつては美術家として奈良のアトリエで装飾品を作っていて、現在は東京のアパートに住んでいる軽認知症の祖母がオーナメントの細工を学びに来たところこそが、このタスコであったのだ。私にとってこの旅行は、かつての祖母を偲ぶための、いわば巡礼に近いものであった。祖母と同じようにスペイン語に苦戦して、祖母と同じようにこの峠道を登って、祖母と同じようにこの景色に感動する。街を通じて、祖母の身体が自分に接続される、ついに祖母がアニメートされる……

シャンドラの灯をともせ

 タスコの中心部には、サンタプリスカ教会と呼ばれる一八世紀に建てられた教会がある。麓からも見えるこの教会を目指して、汗を垂らしながら急な坂を登り、ついにこの荘厳な教会に辿り着いたときには、そこにわずかの神性を見る。ちょうどミサの時間だったので、中の椅子に座り、講壇にいる神父が話すスペイン語を適当に聞き流す。ぼーっと教会内を見渡していると、神父の声に合わせて信者が一斉に立ち上がったので、私も思わず立ち上がる、すると讃美歌の斉唱が始まる、曲どころか言葉さえわからず、中学時代の合唱練習のごとく、悪目立ちしないように努めるのが精一杯だった。
 教会を出ると、出口右手の案内板に「五〇ペソで頂上へ行ける」と書かれていた。五〇ペソと言えば四百円くらいだ、乗った、受付の男性からチケットを受け取って螺旋階段を登る。

さすがは世界宗教

 頂上へ着いたところで、見知らぬ方に話しかけられた。案内の方にスペイン語は話せないと伝えていたからだろう、流暢な英語で出身を訊かれた。日本出身で、現在はオースティンで働いている、と伝えると、彼の方もスペイン出身で、現在はカルフォルニアで仕事を探している、と身の上を話してくれた。どうやらカルフォルニアといっても砂漠地帯に住んでいるらしく、雇ってくれるところがないのだそうだ。カメラが趣味だそうなので少し撮ってもらったあと、しばらく話をして、硬い握手、そして別れた。こういった俄かな友情を築くために、私は日本を離れたのかもしれない。
 彼の前ではできなかったが、私にはどうしてもやりたいことがあった。この教会の頂上にある鐘を、思いきり鳴らしてみたかったのだ。頂上の鐘はロープで固定されており、あきらかに禁止されているような気もするが、なに、鈍感な観光客を装えばよい── 舌から垂れ下がっている方のロープを両手で掴まえて、背負うように勢いよく前方へ投げつける、一度では縁の部分に届かない、さらに力を振り絞って二投目、周りの人々が私の奇行に気づき始めたようだが、ここで止まるわけにはいかない、「届け〜!」と心の中で祈りながら、三投目、四投目、そして五投目にしてようやく、巨大な鐘の音がタスコ中に響いた…………
 爪痕を残し終えたところで、螺旋階段を降りて受付を通ろうとする、すると物凄い剣幕をたたえた受付の方がスペイン語で話しかけてきた。意味もわからずに狼狽していると、カルフォルニアの彼が駆け寄って通訳をしてくれた、「あの鐘を鳴らしたのはだれ?」「……実はぼくです」と答えると、受付の方が怒涛の勢いで「ノー、ノー!」と言ってくる、足元を見られて請求でもされたら大変だ、彼にスペイン語での謝罪の言葉を教えてもらい、「ロ・スィエント! ロ・スィエント!」と連呼しながら足早に逃げた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?