娘に教わる自分の心の傷
朝晩はダウンが嬉しい陽気です。
すっかり冬めいてきましたね。
いつもと違う選択をした朝
先日、娘が初めて幼稚園をずる休みしました。
毎朝、"起きたくないよ〜"、とぐずぐずする娘。
それを夫が、怒ったり、なだめたり、遊びに持ちかけたり、あれやこれやの手を使って起こしてくれているのですが、それをその日はしないでみたわけです。
そのきっかけは、私が子どもの家族共有オンラインアルバムでシェアした、ある先生の子育てメモ:
(まゆみ先生、貴重なシェアリングをありがとうございました)
夫はこれを見て、"あ、自分のしていることはまずいのかも"と思い、娘の意思を尊重することにしたそうです。
案の定、"起きたくない〜"とぐずる娘に、"じゃあ、今日は幼稚園に行くか行かないかを自分で決めなさい"とパパが伝え、それ以上は催促をしませんでした。
結局、時間になっても起きてこないので、私から幼稚園に電話で連絡。
"今日は行きたくないようなので休ませます"と伝え、事の成り行きを見守りました。
自分の行動を他人の目で見る
娘が起きてくるまでに、私は洗濯物干し。
ベランダで作業をする私を見て、下の息子をあやしていた夫が一言。
"ママは洗濯干し、嫌いじゃないんだね。割と喜んでやってるよね?"
そう言われて改めて考えてみました。
確かにそうかもしれない。
毎回、量の異なる洗濯物を限られた物干しスペースにどうバランス良く干すか、を干しながら考えていくのは、良い頭のエクササイズになるし、やり終えた時には一種の達成感が味わえます。
それが、傍目にも見えているわけですね。
"そしたら、逆に私は何を嫌そうにやってるかしら?"
と夫に聞くと、
"朝、娘を起こすこと"
との返事。
へぇー、そうなんだ、そんな風に見えてるんだ。
言われてみて、うん、納得。
なかなか起きない娘をなだめすかしたりご機嫌をとったりしてリビングまで輸送するのは面倒くさいし、なぜ自分で起きないの?とイライラしちゃうからです。
あ、それでパパがそれを担当してくれていたわけだ…(そういうところ、優しいんです)
他者の目を通して自分を観ることで、自分について再認識できることって、結構たくさんあるものですね。
娘を通じて見えた自分の思考の枠
そうこうしているうちに8時半頃になって娘が一人で起きてきました。
"…おはよう"
ちょっとバツが悪そうに一言。
パジャマのまま朝ごはんを食べてから、そのままソファでダラダラ...
パパもママも今日はお家でお仕事だから一緒に遊べないよ、ということを伝え、幼稚園に行っている時間中はテレビは無しね、というお約束をして、一人で遊んでいてもらうことにしました。
しばらくぼーっとしていた娘も、そのうちもそもそと着替えをし始めました。
なんとなくキマリが悪いのか、ちらちらと私の顔色を窺っています。
仕事の準備をしながら、それを目の端で追う私。
そのうち、娘は一人でお絵描きを始めました。
やり始めるとかなり集中するタイプ。
さらさらっと、こんなのを描き上げました。
炭治郎を描いたのを見たのは初めてだけれど、結構しっかり特徴を捉えているね。
あれ、自分の名前以外の字も、いつの間にか書けるようになってる。
知らないうちに成長するものですね。
続いて、別の鬼滅メンバー、善逸や伊之助のお絵描きに取り掛かり始めた娘を見ながら、私の中には徐々に、モヤモヤとした気持ちが湧き上がってきました。
娘のずる休みで一番気持ちが揺れているのは、多分、私だな…
母親をがっかりさせた記憶
そういえば、私が幼稚園生の頃のこと。
年少、年長の2年間で、たった1日だけ風邪でお休みをしたことがありました。
熱で寝込んでいる私に対し、母が一言、
"せっかく皆勤賞狙えたのに…"
しょうがないだろ、と母をなだめる父と母とのやりとりを寝ながら見ている自分、という光景が鮮明に甦って来ました。
私は今まで、小中高、そして大学も、一日もずる休みをしたことがありません。
元気なのにお休みする、という発想自体が自分の中に存在していなかったから。
思い返せば、母のこの一言が大きく影響していたのかもしれません。
母の期待に応えることが大事
→
母の期待に応えられない自分にはバツ印がつく
無意識うちに自分の中にインプットされていた価値観
その"母"の期待が、そのうちに"世間"の期待にすり替わり、いつの間にか一般的な"ちゃんとした人"の枠から外れることをタブーとみなすようになっていました。
さらに、そこから外れた自分に対して、無意識にダメ出しをし続ける…
そのサイクルが長いことずっと回り続けていました。
"枠から出る"という選択肢に気づくこと
多かれ少なかれ、親の言葉は子どもに大きな影響を与えます。
でも、子ども本人はそれに無自覚なことがほとんどです。
そして、それを大人になっても持ち続け、無意識下で影響を及ぼし続けることになります。
無意識下だから、自分で認識できないことが厄介と言えます。
でも、気づいたら、少しずつその枠から出ることは可能なんです。
枠から外れても大丈夫、ということを自分に認識させていくプロセスを辿ることで、そこに留まるのか、別の選択を取るのかを意識的に選べるようになります。
今回気づけたのは、”元気ならたとえ嫌でも休んではいけない”の枠。
”自分のペースでお休みをとってもいいんだよ”、の選択肢を与えて、そこから出る感覚を自分でも味わってみました。
娘との間に生まれたスペース
自分の仕事が終わった後、娘と一緒にお絵描きをして、一緒にお買い物に行きました。
いつもと同じことをしていながら、娘と一緒にいる時間を、いつもよりも居心地良く過ごせている自分に気づきました。
幼稚園のお迎え時間も気にせず遊べる、その解放感はかなり大きかったです。
買い物の帰り道に娘に聞いてみました。
”明日は幼稚園行きたい?”
"行きたい!"
と即答。
なんだかんだ言っても、娘は幼稚園が好きなようです。
言われるから無理矢理行っているわけではないこともわかって、私も気持ちがスッキリ。
翌朝、"眠いよー"と言いつつ、しっかり自分で起きて来られた娘がいました。
一歩成長したようです。
今は、"そしたら、どうしたら早く起きられるかな?これからはどうやって起こして欲しい?"という質問をこちらから投げて、お互いがより心地よくやりとりできる方法を考えるプロセスへと移行中。
(こうした関係系構築のヒントを得るのに、タロットを活用してみたのですが、そのことはまた別記事で書こうと思います。)
子育てを通じて自分育て
私と娘のお互いに対する、"こうあって欲しい"という思いはまだ色々とあるものの、今回、いつもとは別の選択をしたことを通じて、二人の心の通い合いに少し風通しの良さが生まれたようです。
子どもは、親の気付かぬ傷、心の枠に気づかせるお役目を負って来てくれてきるな、としみじみ実感します。
子どもと一緒にいて感じるモヤモヤは、ほとんどが自分の傷につながっていて、自分がもっと自由になることを促してくれている。
"子育ては自分育て"とよく言いますが、その言葉を改めて有り難く受け取ることができました。
そう意識し始めてから、子どもたちとのやり取りから自分が受け取るものが増えたように感じています。
しばらくはその気づきについて綴ってみるつもりです。
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