40歳になって初めて親になった私が、親となる資格について考えてみた
昨晩、テレビで動物と飼い主の感動物語の番組をみていた4歳の娘が、夫と話をしながら”私、なんだか猫を飼いたくなっちゃった”と言いだしました。(娘がおねだりをするときの決まり口調)
夫は、”自分で自分のことをちゃんとできるようになったらね。つまり、朝ちゃんと起きて、歯を磨いて、夜も早く眠れるようになったら、飼ってもいいよ。”と答えていました。(夫が娘の要求に対して条件出しをするのもいつものこと)
娘は、”わかった、それはやるから..."と返事をしていましたが、夫が、生き物を飼うことは責任を伴うことだという話をし始めた頃から、だんだんと上の空になってきて、”ちゃんと話を聞いていないなら、絶対に買わないぞ!”という夫の強い口調にふぇ〜んと泣き始める始末。(まあ大抵このパターンに陥ります)
”もうパパなんかやだー、怒るパパやだー”、とぐずる娘をなだめて、その後、私がお風呂に入り、なんとか機嫌が戻ってきたところで、先ほどの話をもう一度してみました。
”パパはね、怒っていたわけではないのよ。ただ、動物を飼うって、命を預かること、責任があることだから、まず自分のことがちゃんと自分でできるようになってからだったら、猫を飼いたかったら飼ってもいいよ、という話だったの。”
娘は、私の話を聞きつつも、パパに怒られたことに意識がいっていて、猫の話はもういいの、という様子でした。最終的には、パパは怒っていたわけではない、ということはなんとか納得してもらえたようで、しばらくしてからは何事もなかったように、パパと遊び始めました。
一方の私は、自分の口から出た言葉をもやもやとした思いで反芻していました。”自分のことがちゃんと自分でできるようになったら、生き物を飼っても良い...?命を預かる...責任があることだから....?”
私、そんなに"ちゃんと"していないのに、二人も子どもを育ててますけど...
そもそも責任を負うってどういうこと?40も半ばなのに、まだ自分で立つということがおぼつかない私なのに、責任なんて負えるのかしら...
自分で言った自分の言葉に、頭がグラグラとしてきました。
そもそも、私、子どもを育てているという感覚はあまりないかも。むしろ逆に子どもたちに育ててもらっているという事実が目の前にあるし...
でも、自分のやりたいこと、やらなきゃいけない(と思っている)ことに取り組む時間と子どもたちに意識を向ける時間とのやりくりに追われる自分、というのは確かにいる。
ただ、それさえも、自分にとっての学びだから...成長の機会の一つなんですよね。
結局のところ、大人だから、子どもだからという立場の明確な区分や優劣などはなく、育てている、育ててもらっているという感覚も、実際には相互的なもの。
生き物を飼う場合も、きっと相互に成長してゆくプロセスの一つであることを今更ながら理解した自分。
その一方で、自分が長年握りしめ続けていた思考パターン:情報や経験を相手よりも多く持っている”ちゃんとした自分”でいれば、何かを教えたり、何かを教えたりすることで、人の役に立つことができる、つまり自分の居場所(メンツやプライド)が保てる、の存在にも今一度気づくことができました。
そうではなく、みんなが同時存在的に、同時進行で今を経験することで、相互に影響を及ぼしあい、魂として成長してゆく、その場を共有している同志であること。
”ちゃんとした親”、”ちゃんとした母”であろうとせず、ただ、自分らしくその場を一緒に楽しむことを、子どもたちは求めているのですから。(普段はやらなきゃいけないことにかこつけて、その子供達の要求に答えずに済ませている自分がいました💦)
だから、親となる資格、はあるようでない。
親である資格は、子どもと一緒に今を楽しむ心の余裕を持つこと。
そのためには、”やらなきゃ”、”こうあるべき”という頭の言い分も聞きつつ、少しずつ、自分の心のスペースを広げるようにしてゆこう。
今までは存在しないこととして押し込められてきた自分の思いや気持ちに寄り添って、自分の中で統合をしてゆくことで、その心の余裕は、少しずつではありますが、確実に生まれてくるはずです。
子どもたちの胸を借りるつもりで、一歩ずつ進んでみる。
これは、半年前の息子の出産時にも痛いほど思い知った事実だったことに思い至り、その時の思いをもう一度振り返って整理してみることにしました。
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