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自分を責めてしまうあなたへ:嫌な思い出を反芻してしまうあなたへ

ひとりでぼおっと無意識に作業をするような時…考えなくても自然に手が動かせるような単純な作業の時に、嫌な思い出を反芻してしまうことがあった。
例えばお皿を洗っているとき。
お風呂で髪を洗っているとき。
髪を櫛でといているとき。
ひとりでにまたその悪夢の中に引き返し、繰り返し味わっている。
こんなことやめなければ、と思うのだけれど余程意識的にならないと自分をそこから引き剥がせない。

嫌な思い出を繰り返し思い出してしまう

たぶん催眠とか瞑想とかと同じように、こういった単純な動作をしている間は「意識」と「無意識」のはざまにいるようなところがあるのではないかと思う。そしてその時に刷り込まれたものは強い暗示として働いてしまう。
もちろん、こういうことがどのくらい影響を及ぼすかは本人の性質にもよるのだろうけれど(催眠術にかかりやすい人とかかりづらい人がいると言われるように)、少なくとも私は自己暗示にかかりやすい、思い込みの激しいタイプの人間なので、おそらくその効果は大きかったと思われる。

なんとなく自分でもそれを意識していて、わざわざ過去のことを思い出すのは良くないことだなと思いながらもなかなかやめられなかった。
なぜなら、悪夢の中に舞い戻って痛みを感じ続けることは、甘美なことでもあるからだ。

「甘美?」と眉をひそめる方もいらっしゃると思うが、おそらくこれに共感される方もいようと思う。

辛かった思い出に舞い戻る行為には、蜜がある。
なぜなら、その中で動けない自分を許容できるからだ。

絶望とうまく別れられない

絶望から抜け出してもう一度歩き出すのは、とても骨が折れることだ。
味わってきた絶望のなかで体力も気力も、もしかしたらお金や人間関係まで使い果たしてしまったからだ。
ただでさえ現実は厳しい。
それなのに、自分には絶望していた期間というブランクがある。
いったん手放していた人生に軌道を戻し、穴を埋め、またいちから踏ん張り直さなければならない。
負った傷が治っていなくてまだ足がふらふらなのに。

絶望の中にいた時期は、やむを得ず動くことができなかった。
自分がまだ深手を負っていることに繰り返し気づくことで、またはその状況にもう一度自分を引き戻すことで、私はもうしばらく立ち止まっておく必要があるのだと自分に言い聞かせることができる。
「まだ絶望している自分」は、前に進めない。
まだ絶望していれば、前に進まない理由になる。
そうやって、ブレーキをかけたい気持ちがどこかにあるのではないだろうか。

私の場合、この「嫌なこと思い出し期」は彼と別れてから4年以上続いた。
今も、時々ふとそこに戻りそうになることがある。
私の場合、自分を痛めつけていた彼に未練があったわけではなかった。
どちらかといえば、私は、「彼との関係をさんざん我慢してきた時間」に対して未練があったのだと思う。
あれだけ苦労し時間と精神を費やしたことが、大事なことでなかったはずがない。
あれは私にとって貴重なことだった。
おいそれと忘れていいはずがない。
私の人生から「あれは失敗だった」とかき消して良いことではない。
たぶん、そういう意識が、いつまでも後生大事に「嫌なこと」を繰り返し考え自分に刻みつけてしまう行動に繋がっていたのだと思う。

絶望の中にいたときには、動きたくても動くことができなかった。
そのことを、ほんとうは分かっている。
その時に絶望を絶望と認識して逃げたり戦ったりしたらよかった。
でもそれが出来ず、我慢し許容してきたから、それが去ったあともその「嫌なこと」との付き合い方が分からない。
どう「嫌なこと」とお別れしたらいいか分からない。

呪いを解く

表に見えず行われる暴力や圧力が罪だなと思うのは、こういう形でいつまでも禍根を残すことだ。
終わったようにみえて、全然終わりじゃない。
本人にも意識できないかたちでその人の根は折られ、歪められ、長いことその膿に苦しめられる。
本人はもしかしたら苦しんでいることにすら気づかないかもしれない。しかしそうして自分を偽っていることを、「自分」はちゃんと知っている。
偽りは、本人にいつか返ってくる。

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連載を進めるうちに何故私がフランスで生きることを決めたのかにも関わってくるので、そのことを掘り下げてゆけることが自分でも楽しみな連載です。 読んでいただけたら嬉しいです。

いわゆるモラハラを受けていた過去の辛い時代について考えたことを書きました。今の私がどうやって元気になっていったのか、どうやって自分の足元を…

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