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「ちょろい花」もきれいだ

「あれで感動できるの? ずいぶんやっすいね。いいなぁ、ちょろくて」

心のなかで、引っかかっている言葉だ。

10年ほど前、ある映画を観た私が「感動した!」と感想を述べたところ、当時は友人だと思っていた人から発された。

大したことのない作品に喜び、かんたんに心動かされるなんて、安上がりで軽い人間だ。そんなふうに馬鹿にされた気がした。

私は仲が良いと思っていたのだけれど、たぶん向こうは私のことを嫌いだったのだろうなぁ、と今になって思う。都会的な雰囲気が魅力の人だった。洗練という言葉とかけ離れたところにいる私とは、合わなかったのだろう。

切れてしまったご縁にすがるほうではないのに、あの言葉だけが記憶に残っている。一応、私にもプライドがあって「反論しなさいよ」と呼びかけているのかもしれない。

きっとあの人は、もっと高尚な作品に感動するのだろう。「どんな?」と聞かれても、私には答えるすべもないような。

私はわりと感動しやすいたちだと思う。映画館で映画を鑑賞したのは、昨年の『ドライブ・マイ・カー』が最後だけれど、エンドロールがにじんで読めないほど泣いた。

だって、亡くなってしまった人にかけたい言葉がしぼり出されるあの終盤のシーン、もう泣くしかない。あふれるように繰り出される台詞たちは、私の心をつかんでは揺さぶっていった。涙が止まらなかった。

ふだん、ぱっと見では感情の起伏がわかりにくいくせに、よく感激したり、落胆したり、心のうちは大きく揺れやすい。

先日、夫と話していたとき、彼からぽんと飛び出した言葉があった。

「俺はママ(私)を応援するよ」

こんなに力強い言葉はない。私の悩みに対して、彼が具体的になにかをしてくれるという話ではない。でも、今が踏ん張りどきだと自らを鼓舞するそばで、応援してくれる人がいる。ありがたいことだと思った。彼が気づいたかどうかはわからないけれど、思わず目を潤ませてしまった。

感動という花を得るための種は、案外どこにでも転がっている。かといって、揺さぶられればなんでもいいというわけでもない。きっと無自覚のうちに種を選び取っている。そして、私というフィルターを通して得た感動が幸福感をもたらすことも多い。

だから、小さな種を見つけては、ぱかんぱかんと花を咲かせる自分でありたい。うん、ちょろくても、いいじゃないか。

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