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アラフォー、おかあさんといっしょソングに涙する

取り戻せないピュアさと小さな幸せの間で切なくなるアラフォーの話。

4月も半分が過ぎた。Eテレの子ども向け番組「おかあさんといっしょ」の歌のお姉さんが交代してから2週間。はじめは寂しそうにしていた娘たちも今では、第22代となる新・歌のお姉さんによる歌唱を楽しんでいる。

娘たちが1歳でテレビ鑑賞を始めて以来「おかあさんといっしょ」にはとてもお世話になっている。(先代の)あつこお姉さん、ありがとうございました。まやお姉さん、これからよろしくお願いします。…と頭を下げたい気持ちである。

私もいっしょに番組を見ることが多いのだけれど、よく大人も泣いてしまうような名曲に出会う。いや、泣くのは私だけなのだろうか。自分以外の人に「『おかあさんといっしょ』で泣く?」と聞いてみたことがないので分からないのだけれど、どうなんでしょう。

かつては番組最後に流れる「べるがなる」でよく涙ぐんでいた。友達とのつながりや、友達を大切に思う気持ちを素直に表した歌詞が、どうにも心にジーンと響く。

希望に満ちた歌詞をさわやかなメロディーで歌い上げる「ぼよよん行進曲」も捨てがたい。作曲は中西圭三さんである。

いい年をしてなぜ子ども向けの歌に感涙するのか、自分でも苦笑いしてしまうことがある。年を取って涙もろくなったと言ってしまえばそれまでなのだけれど、歌詞のピュアさがこの事態の一因な気がする。

子どもを聞き手として想定している曲の歌詞は、やはりストレートでてらいが少ない。メロディーも明るく、難解さを除いてあるから、心にダイレクトに届きやすいように思う。

私が感動するのは、そこに汚れのない「希望」や「温かな気持ち」が歌われているから、なのかもしれない。もちろん、作り手の願い──子どもには清い存在であってほしいとか、希望を抱いて生きてほしい、とか──が大いに込められてそうなっている部分も否定できないだろうけれど。

大人になると気恥ずかしくて口に出せない望みや、なんとなく心のうちにしまってしまう感情が高らかに歌われる世界は、疲れた大人にはそれはそれは眩しく映るのだ。

きっと私は「おかあさんといっしょ」を見ながら、すれてしまった現在の自分を再確認して泣いてしまうのだろう。私も人生の折り返し地点にたどり着いた(たぶん)。「もう取り戻せない何か」に対する思いを胸に抱いて生きる自分を知っている。

たとえば、私が今から宇宙飛行士を目指すのはおそらく不可能で、現実的ではない。そういうことにいち早く考えを巡らせる癖がついてしまっている。

しかし、幼い子どもだったらどうだろう。不可能かどうかをかえりみず、志を持ち続けるかもしれない。そんな底抜けなピュアさは、私にとって「もう取り戻せない何か」の一部分だろうと思う。

うーん、そう考えると切ない。

ただ、取り戻せないものがいかに多かろうと、自分の生活を充実させるすべは知っている。

悲しいかな、私は偉大なことは何ひとつ成し遂げなかったし、今後もそういうことは望めなさそうだ。それでも、日々の小さな幸せに目を向ければ心は満ちていく。

好きなことでお金を稼げていることとか、愛しい娘たちがそばにいることとか、わりと理解のある夫がいることとか、互いに尊重できる友人に恵まれていることとか。気づけば、心を満たしてくれる要素がたくさんある。

もう少し幸せを上乗せしたいと思ったら、新たな仕事にチャレンジして達成感を味わったり、ちょっと贅沢なお出かけをしてみたり。私の場合、これは大人になったからこそ味わえる楽しみだ。

「おかあさんといっしょ」で名曲に出会うたび、私の気持ちはゆらゆらと揺れるらしい。感情が「取り戻せない何か」と「現在の小さな充足」の間を行ったり来たりしているのがわかる。

過去に対する後悔がないと言えば嘘になるけれど、私は自分の人生が好きだ。にもかかわらず、子ども向けの名曲がダイレクトに胸に届くと、感情が絶妙に拮抗する。

なるほど、年を重ねるとはいろいろと複雑になっていくことなんだなぁ、と感じずにはいられない。

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