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もしも夏休みが1か月あったなら

今回はことばと広告さんが主宰されている「書く部」のお題に参加した記事です。テーマは「夏休みがもし1か月あったなら」。育児も仕事もしなくていい1か月を想定してみます。

夏休みを1か月取れたのは、何年前だろう。6年前、妊娠を機に退職した。けれど、夏の盛りに出産を迎え、そこから双子育児にドドーッと突入したので、ずっと夏休みらしい夏休みが取れていない。会社員時代、転職のあいまでも1か月の夏休みなんて、なかった気がする。

となると、大学時代だ。大学生の頃は、夏休みが1か月くらいあった、たしか。

今はどうかわからないけれど、当時、国立大学の試験は9月だった。だから、解放感に包まれて夏休みを迎える……という感じではなかった。夏休みが明けたらレポートの締切やらテストやらが待ち受けているから、いまいちパアッとバケーション気分にひたれないのだ。休み中、レポート作成のために必死で哲学書を読んでいた年もあったような。

高校生以前も、お稽古ごとのイベントが夏休みに集中していた。武道の大会も、夏休み中にあった。あれ、つらかったんだよなぁと思い出している。

そんなだったから、1か月ドーン!とフリーでお休みをいただけるなんて、夢のようだ。なにしよう?

そこではたと立ち止まる。

今まで私はなにかしらの「自分の役目」を決めて、それをこなすために時間を過ごし、暮らしてきた。お休みということは、「しなければならない」ことからは基本的に解放されるはずだ。なんの役目も負わない自分と1か月も向き合う……、私にできるだろうか。

仕事からも育児からも離れた場所で、私はどんな私でいればいいのだろう。

そう思うと、いつのまにか「母として」「仕事を持つ人間として」という形でしか生きていないことに気づく。きっと誰だってそういうものだと思うけれど。

いろいろと背負いこんだ役目から解き放たれて1か月過ごせば、どんな自分の姿に気づけるんだろう。

仕事をしなくていい、母としての責務も果たさなくていいひと月。それって隠居生活の予行演習みたいだ。

双子の娘たちが巣立ち、私自身も仕事を引退して暮らす日々が20年かもう少し先にやってくる。そのときに抜け殻にならないために「なにもしなくていい私」に慣れてみようと思う。

夏休みがもし1か月あったなら、毎日のドタバタに紛れておいていかれる「私」のやりたいことにフォーカスして過ごそう。食べたいと思うものをつくり、食べ、見たいと思うものを見て、チャレンジしたかった世界に飛びこんで。

1か月それをやり続けたら、老後ライフの楽しい踏切板になりそうだ。老後なんてワードを出してしまうとなんだか笑えてくる。でも、楽しい日々の延長線上に老いが待ち構えているのなら、年を重ねるのも悪くない。

とりあえず、行ってみたいと思っていた南国の島を訪れ、ぼんやり本を読み、ときに美味しいものをたらふく食べる。心の赴くまま、そんな1か月を過ごしてみたいな、と思う。

#夏休みがもし1か月あったなら

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